エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(三)
敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
曖昧に記憶される「戦艦大和」の受難、正しくは......?
『白洲正子自伝』では、間もなく吉田満の本が出版されたことになっているが、そんなことはない。大間違いである。私はいま『戦艦大和の最期』の受難を吉田の「占領下の「大和」」を中心に検証し、もっとも正しいと思われるストーリーを再現しようとしている。そこに関わる人々の記憶が意外に曖昧だったり、明らかに間違っているのに戸惑っている。白洲正子だけでなく、小林秀雄の記憶でさえ怪しかったりする部分がある。やはり一番信頼を置けるのは当事者であり、若くもあった吉田満の記述となる。以下は白洲次郎が動いた時のことと思われる。
「......小林氏が中心になって、しかるべき筋を通じ、最高責任者のK少将に抗議文を提出した。かかる形式的な検閲制度は全く民主主義に反する、却下の理由は何なのか、もし作者が軍国主義の鼓吹を意図しているというのなら、作者を召喚してそれを確認するぐらいの用意があるべきではなかろうか、といった文面であった。折り返し入手した回答は、趣旨は了解した、大体同感である、しかしあの決定は、チーフの責任において、最高会議を経てなされたもので、自分が職権をもって覆すことはできない。もし強行するなら、責任者の失態を認めたこととなり、彼の罷免は必至である。悪しからず了承されたい――という意味で、暗に講和条約発効までの泣き寝入りを強いたものであった」(吉田「占領下の「大和」」)
「大和」は占領行政の邪魔となる「厄介物」となったというのである。江藤淳の追悼文「鎮魂 吉田満」(『追憶 吉田満』に所収)には、江藤が渡米する前の昭和五十四年七月に小林秀雄に会った時の話が出てくる。それによると、終戦連絡事務局次長の白洲次郎と通じて、検閲の最高責任者だった総司令部G2のウィロビー少将に抗議した。戦争という「ゲームを明晰に描いた文章」の何が悪いと。ウィロビーの釈明は「同感」だが、責任者の立場として決定を変更できない、と。小林は「口頭」でのやりとりだった、「書面」でやればよかったと後悔したとのことだが、吉田満は「文書」でのやりとりとしている。これはおそらく吉田満の記憶の方が正しいのではないか。