プーチンが誇示し、『失敗の本質』が批判したノモンハン事件

1939年の日ソ衝突、その背景を読み解く
花田智之(防衛研究所戦史研究センター主任研究官)
1939年8月3日、行軍する日本軍(AP/アフロ)
 これまでも多く論じられてきたノモンハン事件。この事件をめぐる最新の研究成果を踏まえながら、日ソ両国の外交や軍事戦略を通して、その内実を照らす。
(『中央公論』2021年9月号より抜粋)

研究の新たな段階

 日本では「ノモンハン事件」、ロシアやモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれることが多いこの戦いは、1939(昭和14)年5月から9月までの約4ヵ月間にわたり、日満軍とソ蒙軍の間で繰り広げられた激しい近代戦であった。

 この戦いの主な原因は、満蒙国境をめぐる日ソ間の認識の相違と考えられ、日満軍がハルハ河を、ソ蒙軍がハルハ河の東方約13キロメートルを国境線と認識していたことに起因するとされている。そしてこれら二つの戦いの呼称が示すように、ノモンハン事件はハルハ河東岸に位置するノモンハン・ブルド・オボー(チベット仏教の聖者塚)一帯で行われ、両陣営とも2個師団以上の大規模な兵力が動員されたものの、日ソ両国政府が宣戦布告をしなかったため、全面戦争に至らなかった。

 ノモンハン事件は、これまで極東国際軍事裁判(東京裁判)の影響などにより、日本の参謀本部の不拡大方針を無視した現地の関東軍が、「膺懲(ようちょう)活動」の名の下に満蒙国境を「越境」して紛争を惹起・拡大させ、ソ連の機械化軍団の反撃を受けて一方的に大敗したと理解される傾向が強かった。

 このためソ連では「カンナエ(カンネー)の戦い」(紀元前216年8月にイタリア半島南東部のアプリア地方で、カルタゴ軍のハンニバル・バルカ将軍が兵力で上回るローマ軍を包囲・殲滅して勝利に導いた、第二次ポエニ戦争の主要会戦)の再来として語られ、これは冷戦時代に同じ社会主義陣営に属したソ連とモンゴル人民共和国が共闘して日本軍に勝利したという歴史認識の形成にも寄与したと考えられる。

 実際、2019年9月3日にロシアのウラジーミル・プーチン大統領はモンゴルの首都ウランバートルを訪問してハルトマー・バトトルガ大統領(当時)と会談し、会談後の記者会見にて「ソ連軍とモンゴル軍は80年前、肩を並べて戦い、侵略者に手痛い反撃を与えた」と指摘した。

 ノモンハン事件はまた、国境紛争の事例としてだけでなく、歴史の教訓として、日本軍の組織論的研究の名著として知られる、戸部良一ほか著『失敗の本質』(中公文庫、1991年)にも取り上げられ、戦略の曖昧さ、行き過ぎた縦割りの弊害、中央と現地の意思疎通の欠如、作戦重視と情報軽視、責任の所在やガバナンスの不透明さなど、組織戦略論における批判的検証のための事例として引き合いに出されることもある。

 近年の研究成果ではノモンハン事件は日ソ両国ともに数多くの死傷者を出したことが明らかになっている。ロシア軍事科学アカデミー元教授のグリゴリー・クリボシェーエフ氏によれば、ソ連側の死傷者数はソ連崩壊後の史料公開などの影響を受け、大幅に増加して2万5655人とされている。これは現代史家の秦郁彦氏による日本側の死傷者数の推計である約1万8000人から2万人までを大きく上回っている。他方、マルチ・アーカイブを駆使してノモンハン事件の国際的文脈を解明する研究成果も多角的かつ幅広い知見をもたらしており、ノモンハン事件研究は今まさに新たな段階を迎えていると言えよう。

 こうした見地を踏まえ、本稿ではノモンハン事件の研究の現在地に迫るべく、日ソ両国の外交・軍事戦略に注目して、その実相を明らかにすることを目指す。そして、いかなる外交政策と軍事的展開により、極東地域での国境紛争が行われたのかを示す。また、ノモンハン事件研究がもたらす、事件直後の「戦史の教訓」の活用と、私たちが学ぶべき現代史的意義にも触れたい。

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