近代日本の謀略と機密費の関係 小山俊樹

使途の明かされない「ブラックボックス」の役割とは何か
小山俊樹

明治憲法体制における機密費の統制

 わが国における機密費制度の歴史は、明治憲法の制定以前にさかのぼる。たとえば内務省の所管する警察機密費は、ルーツを探れば警察探偵費とよばれる資金で、旧幕府が遊郭遊女に課した賦金を財源とする制度を引き継いでいた(中原英典「警察機密費の前身」)。だが豪華な警察署の建設や土地の買収など、幹部による流用の疑惑が全国で起こった。そこで1888年に賦金は地方税へ組み入れられ、かわりに警察機密費の費目が設置されたのである。各府県会では、警察機密費の使途や予算算定の根拠を問う質問が相次いだが、機密費であるとの名目のもと、具体的な答弁はなされなかった。

 中央政府の機密費制度は、内閣制度の制定(1885年12月)より早く、同年7月以降には内閣機密費の支出が確認できる。だが1890年に帝国議会が開設されると、機密費を含む政府予算は議会の審議を経ることになる。初めて議会に提出された1891年度予算案では、内閣機密費(6万円)を筆頭に、内務省(警視庁・地方庁)、外務省、陸軍省、海軍省、司法省の各省に機密費が計上された。内閣の官制によれば機密費が必要とは思えないとの議員の質問に対して、渡辺国武大蔵次官は「内外政務の機密に充てると云ふ位の事よりお話は出来まい」「私共も実は知らぬ」と、木で鼻をくくったような答弁に終始した。

 民力休養を唱える民党優位の帝国議会は、各省機密費を削減の対象とした。とくに内閣機密費は全廃が目標とされ、1891年度の予算は4万円に減額。93・94年度には民党の目標通り全額削除された(95年度に3万円が認められる)。ただ内閣の機密費が厳しく抑えられる一方で、順調に機密費予算を増やした省庁が、外務省と陸軍省である。とくに陸軍では1891年度予算で1万5000円に満たない額だった機密費が、1908年度以降は40万円弱まで増加した。

 上の歴史的経緯は、対外謀略などの必要性から機密費の制度ができたのではなく、むしろ逆であることを示唆している。あらゆる行政官庁にとって、使途査定のない自由な機密費予算は垂涎の的であった。だが議会の査定が厳しかったため、その職掌から対外謀略の必要性が想定される外務省と陸軍省だけが、機密費を大幅に増額できたのである。

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