問芝志保 なぜ御先祖様を崇拝するのか

近代日本の墓と弔い
問芝志保(日本学術振興会特別研究員PD)
撮影:著者
 日本人とお墓の関わりは、どのように変化していったのか。宗教社会学者の問芝志保氏が、その歴史的背景について論じます。
(『中央公論』2022年2月号より抜粋)

日本古来の墓とは

 日本では古来さまざまな葬送が行われており、何が日本の伝統的な葬送かを定めることは難しい。巨大古墳を造営した大王もいれば、散骨を望んだ天皇もいた。親鸞は生前、自分の亡骸(なきがら)は賀茂川に捨てて魚に食べさせよと述べたが、その遺志に反して遺骨は今も大谷祖廟で丁重に祀られている。

 庶民一般の墓や葬送は、少なくとも古代までは風葬が普通であったと考えられている。奈良~平安時代の遺跡で庶民用の墓地の発掘例は非常に少なく、それも数名が埋葬されている程度の小さなものである。

 中世に入ると一部の地域で、集合的な墓地を作って仏教的意味を持つ供養塔や卒塔婆を立てたり、比叡山や高野山などの霊山へ納骨したりする慣行も始まる(勝田至編『日本葬制史』)。

 それが近世になると、寺請制度のもとで墓地を有する寺院が増え、江戸に住む中流階層以上の人々は檀那寺に家単位の立派な墓石を建てるようになっていく。柳田國男は1931年に刊行された『明治大正史 世相篇』で、かつて亡骸は山や海辺などの自然に還すもので、墓地は「末には忘れてしまうのが当たり前」だったが、近世になり墓が「永久の記念地」と化したことでかえって無縁仏の存在が目につくようになったと指摘している。

 ただし一方で、同じ江戸でも長屋暮らしの下層労働者たちの遺体は寺院への「投げ込み」によって処理されることも多かった(江戸遺跡研究会編『墓と埋葬と江戸時代』)。

 さらに全国では、各地域特有の豊かな葬送習俗が展開する。遺体埋葬地点とは別の場所に墓石を建てる地方もあれば、火葬した遺骨灰の全てをその場に置き去りにする地方もあった。

 奄美・沖縄では洗骨といって、いったん土葬もしくは風葬し数年後に骨を取り出して洗い清める風習も行われた(新谷尚紀・関沢まゆみ編『民俗小事典 死と葬送』)。こうした多様な葬送習俗は、一部の地方では戦後まで続いていく。

 しかし現代の日本人は(沖縄などを除き)、日本の一般的な墓と言えばほぼ同じ形を想起するだろう。「◯◯家之墓」「先祖代々之墓」と刻んだ角柱を建て、下部の納骨室に家族の火葬骨を収納し、子孫代々で継承する墓である(以下「家墓(いえばか)」と呼ぶ)。

 庶民の葬送習俗は、地域により全く異なった状態から、現在のように遺骨を保存し丁重に祀り子孫代々で受け継ぐ家墓へと、各地で移行が進み、今や全国的にほぼ画一的な状態になった。長い年月をかけて、墓の形と意味は大きく転換したのである。

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