水野太貴「ことばの変化は『差異化』こそが原動力――社会言語学者・井上逸兵さんに聞く」

(『中央公論』2025年4月号より抜粋)
- 言語の恣意性と社会的な取り決め
- 解明したい謎
- 「自分は他人とは違う」という意識
言語の恣意性と社会的な取り決め
10年前、僕が大学生のころである。言語学の概論講義を受けていたある日、一つの疑問が浮かんだ。質問しなかったことを、今では大いに後悔している。その疑問は今も鮮明に覚えていて、解決しないどころか、むくむくと大きくなって心の片隅を占拠しているのだ。少しだけ長い話になるが、別に難しくはないので、どうかお付き合いいただけないだろうか。
言語学講義でこんなことを習った。「近代言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュールは、言語記号に恣意性があると指摘した。これは革命的だった」
恣意性というのは、「指す対象と音の結びつきに必然性がないこと」と言い換えてよい。例えば犬に対して、日本語では/inu/という音を当てているが、これに必然性はない。別の呼び名でもいいわけだ。実際、英語ではdogと言うし、フランス語ではchien(シヤン)と言う。/inu/とは全然違う音だ。それはなぜかといったら、言語記号に恣意性があるからだ。
そして、これはほとんどの単語に当てはまる法則だという。確かに身の回りのものを眺めてみても、手は英語でhandだし、机は英語でdesk、椅子はchair。やっぱり全然違う。うん、さすがはソシュール先生。ここまでは納得できるぞ。
でも、言語記号に恣意性があるのだとしたら、なぜ僕たちは意思疎通ができるのだろうか。もし恣意性があるなら、究極的には日本国内で各人が思い思いの呼び方で犬を呼んでもいいわけだ。だって犬を/inu/と呼ぶのに必然性はないのだから。
ところがもちろん、実際はそうなっていない。これはなぜだろう?
ここでまた、言語学講義の記憶がフラッシュバックする。教壇に立つ先生はこう言っていた。
「それは言語が社会的な取り決めだからです。日本語を例にとると、「必然性はないけど犬は/inu/と呼びましょう」と誰かが決めて、話者たちにそのルールを知らせ、徹底しているわけです」
表現は難しいが、言っていることはシンプルだ。モノと呼び名の対応に必然性はないけれど、社会的に「これはこう呼ぶことにしましょう」と取り決めているわけである。確かにこれもごもっともだ。
思えば赤ん坊は、生まれてきた瞬間は周囲のものを何と呼ぶかさっぱりわからない。そこで大人たちが話しているのを聞いて、単語、つまり社会的な取り決めを一個一個覚えていくわけだ。
私たちが外国語を勉強するときも、同じ苦労を経験する。例えば中国語をマスターしようと一念発起したら、中国語話者の取り決めを一つひとつ覚えていく作業が始まる。どんな言語でも、日常会話をこなそうと思ったら数千単語の暗記が求められるわけで、「必然性のない取り決め」をマスターするには一定のコストがかかると言える。
ここまでの話をまとめると、以下のようになる。
・言語記号には恣意性があり、音声と指す対象の結びつきに必然性はない
・そのため話者は単語、つまり「必然性のない取り決め」を覚えなければならない。それにはコストがかかる
そこで冒頭の「一つの疑問」である。
「あれっ、なぜしばしばことばは変わるんだろう?」
毎年のように流行語や新語が生まれ、そして一部は静かに消えていく。2020年の「今年の新語」1位は「ぴえん」だったが、今ではめっきり聞かなくなった。
「ぴえん」はともかく、せっかく言語の取り決めを覚えたのなら、むやみにその形式を変えず、保守に努めたほうが絶対に楽である。変えてしまったら、話者集団はせっかく覚えた形式を捨てて、また別の(必然性のない)取り決めを覚え直す必要があるからだ。
言語変化にどれほどのメリットがあるのか知らないが、ここまでの前提から考えれば、ことばなんて変わらないほうが合理的だ。少なくとも大学生の時の自分はそう思った。