平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 紅吉、虎松の場合

第九回 紅吉、虎松の場合
平山亜佐子
富本一枝、憲吉夫妻
明治から戦前までの新聞や雑誌記事を史料として、『問題の女 本荘幽蘭伝』『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』など話題作を発表してきた平山亜佐子さんの、次なるテーマは「男装」。主に新聞で報じられた事件の主人公である男装者を紹介し、自分らしく生きた先人たちに光を当てる。

 明治から昭和初期にかけて新聞や雑誌に掲載された男装に関する記事を取り上げ、それぞれの事情や背景を想像する「断髪とパンツ」。
 今回は明治末から大正のはじめごろに有名だった男装者2名について見ていこう。

らいてうとの「同性の恋」


 一人目は尾竹紅吉。
 平塚らいてうの肝入りで青鞜社に入社し、持ち前の無邪気さと行動力でみんなに愛されたものの、遊女の話を聞きに吉原に行ったり、カフェーで五色のカクテルを飲んだりしたことがマスコミにバッシングされ、『青鞜』同人からも排斥の声が出てたった9ヶ月で辞する結果となった。
 一体、尾竹紅吉とはどんな女性だったのか。
 紅吉の本名は尾竹一枝、1893(明治26)年に日本画家、尾竹越堂の長女として富山に生まれた。
 芸術家の家であったことと長女だったために比較的自由に育ったが、日本画家を継がせようという父の意志は堅かった。
 紅吉はいやいや絵を描いていたものの上京の思いやまず、大阪の夕陽丘高等女学校卒業後、叔父の家に寄寓しつつ東京の女子美術学校に行くことになる。
 しかしつまらなくなってわずか4ヶ月で退学。叔父の家で絵の勉強や家事手伝いをしていた。
 そんなある日、叔母宛に配達された『青鞜』の購読案内の葉書をたまたま見たことで紅吉の運命が変わる。
 雷に打たれたような気持ちになった紅吉は、帰阪後すぐに平塚らいてうに熱っぽい手紙を書き、1912(明治45)年の3月発売号から『青鞜』に「尾竹紅吉」名義で寄稿し始める。
 その間もらいてうとは手紙の往復があり、4月に上京。このときの紅吉の格好は、らいてう曰く「細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をは」いており、髪は束髪(油を使わず簡単にお団子にした髪型)だった。
 それ以来、らいてうの部屋によく現れた紅吉の姿はやはり「久留米絣に袴、または角帯に雪駄ばきという粋な男装」スタイル。もともと大柄(身長約164cm)で色黒、開けっぴろげな性格で19歳と若かったこともあり、まるで少年のようだった。
 らいてうと紅吉は次第に惹かれあい、5月13日に抱擁、接吻などを含む「同性の恋」が芽生える。原稿には互いが登場、らいてうは紅吉を「私の少年」と書き、紅吉はらいてうを「年上の女」と書いた。
 しかし蜜月はほんの数ヶ月だった。
 7月ごろからマスコミの「新しい女」バッシングが始まり、同時に紅吉は軽い肺結核と診断されて茅ヶ崎に療養することになる。
 らいてうもついていったが、そこへ画学生の奥村博史が出版社主人とともにやってくる。らいてうと奥村はたちまち恋に落ち、紅吉は蚊帳の外に置かれてしまった。
 結局、紅吉は11月号で『青鞜』を離れ、2年後には芸術家の富本憲吉と結婚。同じ年にらいてうも奥村と一緒になった。

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