石川敬史 170年の自由の歴史から始まった国――アメリカ合衆国はエンパイアの夢を見るか

石川敬史(帝京大学教授)

イギリス統治下での幸福と暗転

 アメリカ合衆国は、「50の州」と「連邦政府」の二重構造によって構成される国であることは、よく知られている。生活単位は州にあり、その強力な自立性は、通常の国民国家における地方とは比較にならない。この社会の基本単位たる州の原型となったのが、イギリス領北アメリカ13植民地である。それは17世紀初頭にヴァジニア植民地が建設されてから1732年にジョージア植民地にイギリス国王の勅許状が与えられるまで、1世紀と少々の時間を要して形成されたものであり、さらに1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立がヨーロッパ諸国に承認されるまで約170年の歴史を重ねている。1776年に大陸会議がイギリス本国政府に独立を宣言してから現在まで約250年になるが、植民地時代がアメリカの短い歴史の中でいかに長かったかがわかるだろう。独立後に「州」と邦訳されることになる「植民地」は、アメリカにおける政治的伝統の中核であった。

 本稿でまず強調しておきたいのは、北アメリカ13植民地がイギリス本国から独立したのは、アメリカ側の望みではなかったということである。イギリス本国から約5000キロ離れた大西洋の彼方で「イギリス国王の臣民」でいるという状態は、快適なものであった。アメリカには事実の問題として封建的身分制度が存在せず、自分たちの肉体と精神を拘束する王権と国教会体制は大洋の彼方にあった。同時代のフランスと比較すると、彼らが享受していた自由には驚くべきものがある。この自由は啓蒙主義哲学の産物ではなく、空気のようなものであった。少なくとも、彼らの側には独立を望む理由がなかったのである。

 しかし、大西洋の反対側のイギリス人には、異なる歴史的経験があった。どこまでも暗く陰惨で長い宗教内乱の中で、彼らはピューリタン革命による共和政期、1660年の王政復古、1688年の名誉革命を経て、世界史に名高いイギリス議会主権という近代的国家を確立しようとしていた。北アメリカ植民地諸邦の人々が本国におけるこうした変転を知らなかったわけではない。しかし、彼らにはその実感がなかった。

 13植民地の人々の権利の根拠は、イギリス国王の勅許状であった。彼らにとって、自分たちが住む植民地諸邦は、実態としては自分たちのものであり、抽象的には国王の所有物であった。実のところ自分たちの権利の根拠を国王大権に依拠していたのである。この理解においては、イギリス本国のイギリス人は蚊帳の外の存在であった。

 ところがイギリスはそうではなかった。本国は、既に絶対王政をヨーロッパでもいち早く脱し、国王は「議会内の国王」として君臨はしても統治者の立場にはなく、イギリス議会が統治者であり、行政は責任内閣制によって運営され始めていたのである。この議会と執行権力が、七年戦争が終結した1763年にアメリカの統治者としてにわかにその姿を現した。少なくとも、13植民地諸邦の人々にはそう見えた。イギリス議会とその行政官たちは、国王が課したこともない税制を次々と押し付け、これまで黙認されてきた自由な貿易(密貿易)を犯罪として取り締まり始めたのである。

 これを受けて、北アメリカ植民地の人々が、イギリス国王に無数の誓願書を送っている事実は実に象徴的である。彼らは、帝国としてのイギリスに自分たちの法的立場の確認を行っていたのである。しかし、本国からの応答は彼らにその絶対王政期の世界観の放棄を要求するものであった。その代表的なものが、イギリスの行政官として北アメリカ植民地の統治にも豊富な経験を持っていたトマス・パウナル『植民地の統治』であろう。同書は、第一に、イギリスの封建的条件は1660年には消滅しているので、王の権威への服従は「議会内の国王」の権威への服従を意味すること、そして第二に、イギリスにおける帝国とは、一体性を意味するのであり、連合は意味しないと主張しているのである。その意味するところは、イギリスとは古代ローマのような意味においての「エンパイア」ではなく、あくまで「王国」なのであり、それゆえ北アメリカ植民地諸邦を「併合」することはできるが、「連合」として存続を許すことはできないと述べているのである。

 イギリス本国の主張の本質を理解したジョン・アダムズは、「ノヴァングルス」というペンネームで『ボストン・ガゼット』紙に寄稿し、「ブリティッシュ・エンパイアという用語は、コモン・ローの言葉ではなく、新聞や政治的パンフレットの言葉である」とした上で、「『インペリアル・クラウン・オブ・グレート・ブリテン』なる言葉は、コモン・ローではなく宮廷のお追従の言葉である」と論じている。

 大西洋両岸のイギリス人の間で帝国の用法が異なっており、北アメリカ植民地がイギリス帝国内に自立した立場を持ち得ないと、植民地の人々が理解したことが1776年の「独立宣言」につながったといえよう。イギリス本国の「帝国」とは、支配を意味し、包摂を意味しないのである。

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