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芝 健介 第三帝国という虚妄 ヒトラーはいかなる共同体をめざしていたのか

芝健介(東京女子大学名誉教授)
写真提供:photo AC
 『ホロコースト』や『ヒトラー』を著した研究者が、第三帝国という概念の歴史的背景を解説。
(『中央公論』2022年7月号より抜粋)
目次
  1. 皇帝はいないのに「第三帝国」?
  2. 第三ライヒとは

皇帝はいないのに「第三帝国」?

 1933~45年、アードルフ・ヒトラーおよびナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)の支配下にあったドイツは「第三帝国」と呼ばれる。独裁政治を築いていたとはいえ、彼自身はもちろん皇帝ではなく、国家体制も共和制のままであった。にもかかわらず、なぜ「帝国」と呼ばれるのか。

「第三帝国」とは、ドイツ語の「Drittes Reich(ドゥリッテス・ライヒ)」の一般的な邦訳であるが、これを英訳する場合はThird EmpireではなくThird Reichとなる。つまり、ライヒという言葉は一律に「帝国」を意味しているわけではない。ライヒは、意味としては「くに」(国)を指していたが、日本語では同じ「くに」(邦)を指すドイツ語としてLand(ラント)もあり、ドイツ近現代史を理解するには、この二つの「くに」、ライヒとラントの関係を視野におさめておくことが肝要である。

 ラントは、現在のドイツ(連邦共和国)では、連邦を構成する州を指すが、中世末から近世にかけては、神聖ローマ帝国(962年から19世紀初めまで、形の上では800年以上存続)を構成した小国家(領邦)を一般的に指していた。皇帝権の弱体化や、各領邦君主による領域支配権の一元的集中化の結果、ラントは自立性を高め、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約によって同盟締結権を獲得、主権的領邦国家へと成長していった。

 一方のライヒとは、そもそも神聖ローマ帝国の支配領域全体およびその中央権力を意味する言葉であり、君主制時代の理念としては「Kaiser(カイザー/皇帝)」とセットであった。


 300あまりの領邦国家(数は時代により変動)と皇帝直属の帝国都市から成った神聖ローマ帝国は、1806年にフランスのナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)によって解体された。その後、プロイセン王国首相ビスマルクの主導のもと、1871年に北ドイツ連邦の盟主であるプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に就任するとともに国号を「Deutsches Reich(ドイチェス・ライヒ)」へ改名し、ドイツ帝国(1871~1918年)が成立。25のラント(帝国支邦:22の君侯国家と3つの自由市)から成る分権的連邦国家として発足したライヒの主権は、ラント代表の議会である連邦参議院(議長はプロイセン王=ドイツ皇帝)にあるとされた。実質的にプロイセン主導の君主制連合国家であったドイツ帝国は、神聖ローマ帝国からは数えて2番目のライヒであり、日本では早くから「第二帝国」「第二帝制」とも呼ばれた。

 ドイツ帝国は、第一次世界大戦の敗戦と革命により消滅し、ヴァイマル共和国(1919~33年)が誕生する。ただ、君主制が崩壊(皇帝はオランダに亡命)し共和制になっても、国号は「ドイチェス・ライヒ」のままであった。しかし敗戦と革命で一変したドイツでは、保守反動派を中心にヴァイマル共和国を正規の国とは認めたがらず、ヒトラーが政権を奪取して以降のナチ体制を「第三ライヒ」と呼ぶようになる。

 このナチ体制下でも、国号は引き続き「ドイチェス・ライヒ」のまま変わっていない。つまりビスマルクのドイツ帝国が誕生した1871年から、第二次世界大戦でナチス・ドイツが倒れる1945年までの74年の間、国制は激変したが、「ドイチェス・ライヒ」という国号は不変だった。裏返せば、第二次世界大戦後、ライヒは消滅したことになる。
 すでに述べた通りライヒは必ずしも「帝国」を意味する言葉ではないにもかかわらず、神聖ローマ帝国も、「第二ライヒ」であるドイツ帝国も帝制だったために、日本では「第三ライヒ」も「第三帝国」と訳され定着してしまったのであろう。

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