芝 健介 第三帝国という虚妄 ヒトラーはいかなる共同体をめざしていたのか
第三ライヒとは
「第三ライヒ」という言葉はヴァイマル共和国時代に広まった。その重大な一契機は、1923年に政治評論家のメラー・ファン・デン・ブルック(以下ブルック)が刊行した有名な著作『Das dritte Reich(第三ライヒ)』である。ヴェルサイユ条約不履行を理由とする仏・ベルギー軍によるルール占領、異常なハイパーインフレ、合法的に成立したザクセン・テューリンゲン両ラント左翼連立政権に対するライヒ政府の強引な介入、ミュンヒェン一揆等々が相次いだ1923年に出版された同書は、神聖ローマ帝国を「第一ライヒ」、ドイツ帝国を「第二ライヒ」と位置づけた上で、その正統性を受け継ぐ「第三ライヒ」の創設を訴えるものであった。
なお、ブルックにとって「第二ライヒ」であるドイツ帝国はあくまでつなぎのライヒであり、「第一ライヒ」たる神聖ローマ帝国がより重要と目された。ドイツ帝国はビスマルクによって小ドイツ主義的に、すなわちオーストリアを排除する形で統一された初のドイツ国民国家だった。第一次世界大戦終結間際、いずれも帝制が崩壊したドイツ、オーストリアでは、社会民主党を中心とする新しい政府がドイツ人の自決権とアンシュルス(独墺合邦)の確立に向けて動いたが、アンシュルスは1919年6月に連合国から強制されたヴェルサイユ条約によって禁じられてしまう。
ブルックは反ヴェルサイユの知識人グループ「6月クラブ」を結成。彼は帝制回復をめざしたわけではない。「第三ライヒ」を謳っているだけであり、第一と第二のライヒは皇帝を伴っていたが、第三ライヒは空想の産物として生まれた新しい将来の「ライヒ」であり、その意味では曖昧模糊とした概念であった。しかし、時代のコンテクストを考えると、敗戦によって尾羽(おは)打ち枯らしたドイツ国民に希望を与えるための、ある意味で敗戦を合理化するような議論のなかで生み出された、神話的響きをもつ言葉だったといえよう。ブルックが難じたのは、ドイツ民族の自己意識の動揺だった。戦争に負け、君主制は喪失、領土も奪われざるをえなかったが、ドイツ民族から「ライヒ」は失われていない。このライヒは、ヴァイマル共和国(憲法)に象徴される即興の国家ではなく、他のどんな国家群にも期待されえない、考えうる究極のライヒであるとする。ブルックにとっては皇帝観念やプロイセン軍国主義ではなく、ドイツ民族をライヒの革新の源泉と信じる「国民の覚醒、目覚め」こそが、時代の言葉でなければならなかった。
敗戦と革命を経たヴァイマル共和国時代のドイツでは、宗派(プロテスタントとカトリック)、階級(ブルジョアジーとプロレタリアート)、地域(農村部と都市部)等様々な社会的亀裂は依然深く、とりわけ西欧から導入された議会制民主主義を支持するリベラル・左派と、君主制の復活を求める反動・右派の政治的対立は深刻であった。
そうした国民間の分断を望まず、真の国民共同体を希求する動きも見られるなかで、ブルックは共和制でも君主制でもない第三の道として(現実にはヴァイマル議会制を主敵とし)、ナショナリズムと社会主義を結合することで実現されるライヒの革新を志向したが、1925年に自殺してしまう。彼の『第三ライヒ』はその後も広く普及、ヒトラーも同書をかなり参考にし、ナチ党のスローガンとして「第三ライヒ」の間もない到来を喧伝したのである。
ブルックと同様に、ヒトラーもドイツの分断に対して非常に意識的であり、議会制民主主義にも君主制復活にも反対であった。そしてインターナショナリズムを拒否し、ナショナリズムと社会主義を結合させることで第三の道は開けると訴えていた点でもブルックの主張と一致した。
しかしヒトラーとナチ党は、国民間の分断を克服せんとする国民共同体ではなく、むしろ力(暴力)によって左右の対立を超克せんとする、差別と「異分子」排除を辞さない「民族共同体」の構築をめざした。
かくして、ヴァイマル共和国の理念としてあった国民共同体は、暴力性を伴った「民族共同体」へと読み替えられていくこととなる。
ただ、「第一ライヒ」である神聖ローマ帝国を振り返ると、たとえば12世紀のフリードリヒ1世(バルバロッサ)の場合、ドイツ人にとっては、帝国を再建し、第3回十字軍遠征途次、不慮の死を遂げた英雄であるが、他方イタリア政策の面では、「ミラノの殺戮・破壊者」として北伊市民に記憶された皇帝でもあった。そういう意味では「第一ライヒ」も暴力的、あるいは膨張の要素を孕んでいたという見方もできる。
1933年1月30日、大統領ヒンデンブルクはヒトラー・ナチ党総統をドイツ国首相に任命。新首相はただちに共和国憲法に対して忠誠誓約をおこなったが、その4日後、国民には内密に軍指導部を集め「デモクラシーという諸悪の根源を除去する」等を訴え、左派・民主派の抑圧・解体の決意を披瀝していた。
2月末、憲法の基本権にかかわる条項は「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」(前日夜の国会議事堂放火事件への新政権の措置)によって停止された。3月23日には「授権法」可決によって、予算を含む法律を国会にかわって制定しうる立法権が政府に与えられ(この法律は憲法に違背しえた)、大統領にかわって首相に法令承認権が与えられることとなり、国民の基本的人権を中心にヴァイマル憲法は実質的に破棄され、ヒトラーとナチ党による独裁への道が決定的に開かれた。
授権法成立2日前の3月21日は、62年前に帝国宰相ビスマルクがドイツ国民国家創立後初の帝国議会を開いた日にあたる。この日ポツダムの衛戍(えいじゅ)教会(フリードリヒ大王墓所)では、第三ライヒ初の国会開会式がおこなわれた。このポツダムの日は、帝制軍部の元帥服に身を固めたヒンデンブルクにモーニングコートのヒトラーが厳かに一礼握手する形で、伝統的支配勢力と新興ナチスの和合が演出されたものと普通、解されるが、ビスマルクの小ドイツ主義の連続性を具現したヒンデンブルク大統領から、大ドイツ主義を体現するオーストリア(正確にはオーストリア=ハンガリー二重君主国)出身で、ほぼ1年前にドイツ国籍を取得したばかりの平民宰相ヒトラーに、ライヒの権力が移譲される儀式であった。いずれにしてもヴァイマル(議会制民主主義)「体制」に訣別する、「第三ライヒ」開始のセレモニーとなった。
それまでのライヒ神話の諸要素が一挙に現実味をおびてヒトラーという新しい指導者に投影・可視化され、今までナチズム運動に疎遠・無関心だった同時代人にも深い印象を与えたことは否定できない。彼にとってライヒ神話は、国際世論をも、大ドイツ、オーストリア・ドイツ人を包摂したライヒの考え方に慣れさせるのに大きく貢献することになった。
憎悪に満ちたヒトラーのヴェルサイユ条約論難も、連合国が彼の故国をしてライヒとの合併を挫折せしめ、まさにその行為によって民族自決権に対する無視をあらわにしたのだという論拠をもっていた。ナチ・ドイツ=「第三ライヒ」に対する西欧の宥和政策が1930年代後半顕著になるが、特に英国ではヴェルサイユ体制への批判が増幅されるにつれ、アンシュルスに対する抵抗は一掃され、38年3月、ヒトラーによるオーストリア併合がついに実現する。これを皮切りに第三ライヒによるチェコスロヴァキアのズデーテン地方併合(38年9月)、チェコスロヴァキアの解体(39年3月)へと続く事態発展が、第一次世界大戦以前の状態の回復を完全に逸脱・超出するにいたっていた点は見逃してはならない。民族ドイツ人(フォルクスドイチェ)(簡略化して言えば国外在住でドイツ国籍を持たないドイツ民族)の「回収」を含む全ドイツ人のライヒが圧倒的に優勢になった結果、中欧における覇権的地位を第三ライヒが占める地政学的状況が出現したが、ミュンヒェン会談に示されたように、英仏にとってはそれが一見不可避で国際的面子がいくぶんなりとも保たれている限り、受け入れ可能とされた。
にもかかわらず、ヒトラーは目標の達成に満足していなかった。これらはライヒの境界の拡張、民族ドイツ人の移動境界を越える植民政策の第一段階に過ぎず、大陸全体の効果的支配がめざされていた。
「1914年(第一次世界大戦開戦時)の国境の回復」にとどまることは、ヒトラーの目には「犯罪とみなせるほどの政治的ナンセンス」だった。すでに1920年代半ばに出版されていた『わが闘争』のこの記述は、内外で看過され続けたということにもなるが、こうしてみると彼にとってライヒは、何よりドイツ民族の支配を正当化するための重要な手段であったことがわかる。
(構成:須藤輝)
1947年愛媛県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。國學院大學助教授、東京女子大学教授を歴任。専門はドイツ現代史、ヨーロッパ近現代史。『武装SS』『ヒトラーのニュルンベルク』『ホロコースト』『ニュルンベルク裁判』『ヒトラー』など著書多数。