新型コロナ・インフルエンザの同時流行でふり返る、日本のナイチンゲール大関和の偉業。「鎌を振り上げて襲ってきそうな村人」の心を動かし、赤痢の集団感染に立ち向かう

明治のナイチンゲール――大関和物語
田中ひかる
大関和

 新型コロナウイルスの流行以来、私たちは感染症を意識した生活を余儀なくされている。しかし歴史を振り返れば、人類は常に感染症に翻弄されてきた。日本に限っても、天然痘、赤痢、コレラなど、症状が激烈で死亡率も高い感染症が、定期的に猛威をふるった。

 西洋医学が導入された明治期においても状況は変わらず、例えばコレラは、明治10年代(1877年~)だけでも、10万人以上の死者を出す大流行を二度も引き起こしている。現場での「防疫」は、おもに感染場所の消毒と「避病院」への患者の隔離であった。病院とは名ばかりの避病院では、次々と患者が亡くなったため、人々は「死病院」と呼び、隔離を恐れた。そして、まじないやデマを妄信した。

 行政による強硬な防疫のみならず、米価高騰に対する不満も重なり、全国で暴動が起こるなか、千葉の鴨川では40代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにされ、川に遺棄されるという事件が起きている。住民たちは、「避病院への隔離は患者の生き胆を抜くため」というデマを信じ、さらに医師が井戸を消毒する姿を「毒を撒いている」と誤解したのである。

 こうした時代に、有効な感染症対策を講じ、先頭に立って実践し、劇的な成果を収めたのが、「日本のナイチンゲール」と言われる大関和(おおぜき・ちか)である。 

家老の娘から「日本のナイチンゲール」へ

 大関和は、幕末に黒羽藩(現在の栃木県大田原市付近)の国家老の娘として生まれた。早くに嫁いだが、妾の存在に嫌気がさし、当時としては珍しく妻側からの離縁を果たす。

 東京神田の母親の家に身を寄せ、女中をしながら幼い息子と娘を育てた。手に職をつけるべく通っていた英語塾でキリスト教に出会い、牧師から「看護婦」になることを勧められる。

 当時、日本にはまだ専門的に学んだ「看護婦」はいなかった。コレラ患者が出た家で、家族への感染を防ぐために「看病婦(看病人)」が雇われることがあったが、素人同然の彼女たちは、感染して亡くなることも珍しくなかった。また、戊辰戦争や西南戦争の戦場では怪我人が続出したが、兵士たちはろくな手当ても受けられないまま亡くなっていった。

 こうした状況を憂い、現在の日本赤十字社の祖となる佐野常民や、東京慈恵会の祖となる高木兼寛、そしてアメリカからやってきた女性宣教師たちが、本格的に看護婦を育てようという動きを見せていた時期であった。

 和はこの中の一つ、アメリカ人宣教師マリア・トゥルーが設立した「桜井女学校附属看護婦養成所」に一期生として入学した。明治201887)年、28歳のときである。マリアは、明治期の日本の女子教育に心血を注いだ人物で、女子学院の創設者としても知られている。

 看護学校を卒業した和は、現在の東京大学医学部附属病院の外科婦長として迎えられた。当時の和について「新鮮な知識、人類愛に輝く瞳――そして純白のユニフォームに、わが国看護婦の輝ける先駆者としての意気を示したばかりでなく、当時の最先端女性として職業戦線をさっそうと行った」(『東京日日新聞』1932.5.25)と評す新聞記事が残っている。

 慈愛に満ちた看護に、患者たちの信頼も厚かったが、医師たちは患者第一の姿勢を煙たがった。和が、看護婦たちの労働環境や待遇の改善について意見したことがきっかけで、医師らとの軋轢は決定的となり、退職を余儀なくされる。失意のなか、和はマリアの伝手で越後高田の女学校の舎監となり、その後、同地の「知命堂病院」の婦長の職を得た。

2.看護学校修了時.jpg看護学校終了時。前列右から2人目が大関和。同じく左から2人目が鈴木雅。中央が看護教師のアグネス・ヴェッチ

1  2  3