新型コロナ・インフルエンザの同時流行でふり返る、日本のナイチンゲール大関和の偉業。「鎌を振り上げて襲ってきそうな村人」の心を動かし、赤痢の集団感染に立ち向かう

明治のナイチンゲール――大関和物語
田中ひかる

感染症対策で全国に名を馳せた大関和

 和ら看護婦と村人たちは、知命堂病院から持ってきた桶や鋤などの道具を大八車に乗せ、四町(約440メートル)ほど離れた避病院へ向かった。それは見るからに粗末な20畳ほどの小屋で、敷きつめられた布団には、糞尿にまみれた患者たちが虫の息で横になっていた。赤痢は子どもの方が重症化しやすいため、収容されている患者の8割が子どもであった。

 和はここで、看護学校で学んだナイチンゲール方式にもとづく感染症対策を徹底して行った。それは、放置されていた排泄物の処理、簡易な便所作り、丁寧な掃除と換気、患者の身体と衣類を清潔に保つことであった。さかのぼること35年、フロレンス・ナイチンゲールは、クリミヤ戦争の野戦病院において同様の対策を行い、死亡率を43パーセントから2パーセントまで下げることに成功している。

 こうした対策は、今日では当たり前のことだが、明治の日本ではまだ「衛生」という概念自体が普及していなかった。

 「死病院」の悪臭のなかで死を待つばかりだった子どもたちは、きびきびと働く看護婦たちの姿に励まされる。このあと和の提案で、小屋がもう一棟建てられ、重症者と軽症者が分けられる。軽症者用の建物には台所が設えられ、食事の提供も行われるようになる。

 和の感染症対策は劇的な効果を上げ、名声は全国へ広がった。各地から防疫の依頼が殺到し、和は看護婦たちを率いて対策に向かった。このときのことを女性史研究家の村上信彦は、こう記している。

「その看護は文字どおり愛と献身にあふれた無私の奉仕で、それだけ異常な成果をあげた。(中略)群馬県の九十九村では百名の赤痢患者を扱って死者わずかに六名、埼玉県の加治村でも百名の赤痢患者のうち死者五名、あとは全員完治させている。(中略)当時の医療水準から考えればこれは奇蹟とも言うべきで、いかに看護の力が大きかったかをものがたっている」(『大正期の職業婦人』)

 和は後進の育成や、執筆や講演による衛生概念の普及にも努めた。

日本の看護の近代化に捧げた人生

 和は、看護学校の同窓で、盟友ともいえる鈴木雅とともに、病院から独立した「派出看護婦」という働き方を確立したことでも知られている。当代随一の派出看護婦として、政財界の重鎮たちからの指名が尽きなかったが、最も力を入れたのは、貧民救済活動や無償看護であった。和の看護の背景には、キリスト教の教えに基づく「報酬をあてにせず、行為それ自体が酬いなのだという考え方」(同上)があった。

 実際、働きづめであったにもかかわらず、常に借金を抱えており、質屋通いを続けていた。孫によれば、いつも「金は天下の回り持ち」と言って笑っていたという。

 大関和は、関東大震災における救護活動を最後に看護婦を引退し、昭和71932)年に74歳でこの世を去った。

 今日でも、感染症対策の基本は、衛生環境を保つことである。医療よりもまじないやデマが信じられた時代に、衛生の重要性を社会に知らしめ、率先して対策に取り組み、後進を育てた大関和は、日本の感染症対策の先駆者と言っても過言ではない。感染症に向き合わざるをえない今こそ、彼女の功績はもっと知られるべきであろう。

 

明治のナイチンゲール――大関和物語

田中 ひかる

今や看護師は、社会に欠かせない職業である。所定の学校で専門知識や技能を身につけ、国家試験に受かってはじめて就くことのできる専門職であり、人の健康や命を守る尊い職業として、広く認知されている。しかしかつては、「カネのために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業」と見なされていた。
家老の娘に生まれながら、この「賤業」につき、生涯をかけて「看護婦」の制度化と技能の向上に努めたのが、大関和(ちか)である。和は離婚して二人の子を育てる母親でもあった。和とともに看護婦となり、彼女を支え続けた鈴木雅もまた、二人の子を持つ「寡婦」であった。  これは近代日本において、看護婦という職業の礎を築いた二人のシングルマザーの物語である。

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田中ひかる
1970年東京都生まれ。博士(学術)。著書に『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(中央公論新社)、『生理用品の社会史』(角川ソフィア文庫)、『月経と犯罪 〝生理〟はどう語られてきたか』(平凡社)、『「毒婦」 和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)など。
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