乃木希典は「愚将」か「名将」か 最新研究が明かす実像

- 評価変転を重ねた乃木希典
- 現場での戦術改良を主導した乃木
評価変転を重ねた乃木希典
日本近代の軍人で乃木希典(のぎまれすけ)(1849〜1912)ほど名将から愚将、愚将から名将へと評価が大きく揺れ動いた軍人はいない。明治37年(1904)に勃発した日露戦争において、乃木は第三軍司令官として旅順攻囲戦を指揮、難攻不落と称された旅順要塞を陥落させたことから、日露戦争を代表する英雄と見なされた。そして、明治天皇の崩御に際し、「〔前略〕大君のみあとしたひて我はゆくなり(明治天皇を慕って私も死ぬことにしよう)」の辞世を残し殉死したことで、乃木は神社の祭神として祀(まつ)られるほど国民の尊敬をあつめるに至った。
だが、大正14年(1925)に陸軍歩兵大佐の谷寿夫(ひさお)が、陸軍大学校での講義(「日露戦史講義摘要録」)で、旅順攻囲戦中の乃木の指揮をめぐり大本営に批判が存在したことや、旅順を守るロシア軍への決定打となった二〇三高地攻略に満洲軍総参謀長である児玉源太郎(1852〜1906)の関与があったことを明らかにし、一部の陸軍軍人の間で乃木愚将論が台頭する。しかし、乃木の「清廉」にして「質素」な武人としての逸話が小学校の修身(道徳)の教科書に採用されたり、陸軍の教育総監部編纂(へんさん)の修養書『武人の徳操』において、将兵と労苦を共にする乃木の「率先躬行(きゅうこう)」が模範事例として紹介されたりしたことなどから、戦前期には多くの人の間で、乃木は「軍神」、もしくは帝国陸軍軍人の理想像として評価されていた。
戦後、谷の講義録が昭和41年に『機密日露戦史』として刊行されたのを契機に、乃木愚将論は広く知られるようになった。そして、国民的作家の司馬遼太郎が、昭和43年連載開始の小説『坂の上の雲』で、同書に依拠して、旅順攻囲戦における第三軍の損害を「日本兵の集団自殺的な死」であるとし、その原因を同一の戦法を繰り返す「乃木軍司令部の無能」に求めて乃木の用兵批判を展開したことから、乃木愚将論は研究者を含む世間一般の注目を集め、通説として定着することとなった。
乃木愚将論に対する批判は早くからあったが、平成に入り本格化する。桑原嶽(たけし)『名将乃木希典』(1990年)や、別宮暖朗(べつみやだんろう)『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』(2004年)などが刊行され、乃木名将論が展開されたのだ。桑原は、二〇三高地の戦いにおいて児玉が「特別な攻撃案を出したわけでもない」として、児玉の作戦指導は二〇三高地陥落とは無関係と評価。別宮は、要塞を陥落させるには一定程度の犠牲を計算に入れた歩兵の突撃しかなかったとして、乃木の戦術を肯定した。
だが、結論こそ名将か愚将かで異なるものの、彼らの小説や研究は、第三軍に批判的な大本営側の視点に立つ長岡外史(がいし)(参謀本部次長)の関係史料、それを主たる史料として旅順戦を描いた『機密日露戦史』などを基礎としたもので、第三軍側の史料を使用していない欠点があった。
そして、2010年代以降、第三軍参謀の日誌・回想録などの史料が新しく発見・刊行され、それを用いた研究が筆者により発表され(『新史料による日露戦争陸戦史』2015年、『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』2024年)、乃木愚将論のみならず、乃木再評価論の誤りも明らかとなり、より客観的観点から乃木は名将として評価されるに至っている。そこで、最新研究に基づき、乃木愚将論への反論、乃木の統率能力、二〇三高地の戦いにおいて児玉が果たした役割について説明してみたい。