「日本人ファースト」を法哲学で考える 福祉国家を支える論理と倫理

- ナショナリズムを巡る道徳的問題
- 不偏性では福祉国家は存立不能
ナショナリズムを巡る道徳的問題
2025年7月に行われた参議院議員選挙が、参政党の掲げた「日本人ファースト」の標語とその是非を巡る議論に彩られる形で進展したことは、我々の社会になお強い余韻を残している。我々が同国民に対して、非同国民に対しては有しないような道徳的な地位、すなわち、優先的配慮の道徳的権利と道徳的義務の関係を有するという発想が「ナショナリズム」の中核にはあり、そのことがナショナリズムの道徳的な疑わしさないし健全さの問題の中心でもある。本稿では、まずナショナリズムの道徳哲学的問題を簡単に検討し、その後に現実政治におけるナショナリズムの問題に触れることとしたい。
ナショナリズムの道徳的正当性を巡る左右の対立は、我々の道徳が有する二つの側面に淵源している。一方は「不偏性(impartiality)」こそを道徳の中核とみなす側面であり、他方は「偏向性(partiality)」こそを道徳の中核とみなす側面である。
まず後者から説明しよう。我々は自分と特別な(人間)関係にある存在を、そのような関係を有しない存在と道徳的に区別された地位を有するものとみなす。私の友人や家族は私にとってまさしく友人や家族であって赤の他人ではなく、赤の他人に対するのと異なり特別な道徳的配慮の対象である。この種の道徳的思考は、私が特別な人間関係を負う存在を、赤の他人とは道徳的に区別された地位を有するものとして取り出してくる。このようにして、私の道徳的義務が私の有する特別な人間関係に由来することを「行為者相関性」といい、偏向性はこの行為者相関性の別名である。この種の人間関係とそれが生み出す義務へのコミットメントこそが人倫の根本である、という主張には人々を強く納得させるところがあるだろう。同国民は赤の他人ではないのだ(=ナショナリズム)。
これとは対照的に、不偏性すなわち行為者相関性の排除こそが道徳の中核だという思考も確かに我々のうちにある。自身が自身にとって「本人である」という極めて特殊な人間関係を有することによって、自身を赤の他人よりも道徳的に重要な存在として扱う。それはエゴイズムそのものであって、このエゴイズムを排除し、万人を道徳的対等者として扱おうとすることこそが道徳の核心ではないだろうか。人の苦しみと喜びは誰のものであれ等しく扱われるべきであろう。
たとえば、道端で倒れている人に行き当たったとき、その人を救助すべき道徳的義務は、その人が赤の他人であろうと自分の関係者であろうと、なにも変わらない。赤の他人に対して義務を負う者が、自身の人間関係に基づき、自分の関係者を赤の他人に対して負う義務の要求とは異なって扱うことは、道徳的に不当であり非難されるべきである─。その感覚を欠く者は道徳を理解していないのではないか。
教師が教室で自分のお気に入りを優遇するとか、人事担当者が自分の友人や家族を優遇するといった事例を考えてみればよい。これらの事例が示す通り、行為者相関性なるものは、どこまでいっても自身を中心にいささかばかり拡張されたエゴイズムでしかなく、我々の道徳的真価は、むしろまったくの赤の他人に対する態度によってこそ量られる。ナショナリズムは身内びいきでしかない。