二・二六事件はなぜ起き、何を残したのか 事件研究の第一人者らが語る

筒井清忠(帝京大学学術顧問)×髙杉洋平(帝京大学准教授)
髙杉洋平氏(左)、筒井清忠氏(右)
(『中央公論』2026年3月号より抜粋)

事件の背景にあった社会変動

――1936(昭和11)年に起きた二・二六事件は、今年で発生から90年を迎えました。事件研究の第一人者で、昭和史研究の第一線で長らく活躍されている筒井清忠先生と、近刊『帝国陸軍─デモクラシーとの相剋』(中公新書)が話題の髙杉洋平先生に、この事件を切り口として昭和戦前史についてお話しいただき、そこから現代にも通じる教訓やヒントを見いだしていければと思います。


髙杉 二・二六事件といえば、近代日本史上最大のクーデターとして、世間一般には軍国主義的なものが発露した出来事だというイメージがなんとなく存在しています。しかし筒井先生が書かれた『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)を読むと、実はそうではないことがよくわかるのですね。同書を初めて読んだとき、むしろ普通選挙や二大政党制、平和主義といったものが風靡する、いわゆる大正デモクラシーの社会の中でこの事件の種が蒔かれていったことを知り、非常に驚き、新鮮に感じた記憶があります。


筒井 そうですね。1925(大正14)年に普通選挙法が制定され、27(昭和2)年には立憲民政党が成立して、本格的な二大政党制が始まります。「買収が起きるのは選挙民が少ないからで、普通選挙になれば有権者数が膨れ上がって買収不可能になるだろう」とも言われていたのですが、実際は逆で、政治資金がらみの疑獄事件が頻発しました。また、たとえば選挙を取り扱う内務省は各県知事・警察署長から巡査に至るまで政友会系と民政党系に分かれてしまうなど、官僚が政党化します。そうした結果、政党政治への国民の不信感はどんどん膨らんでいきました。


髙杉 さらに1929年には世界恐慌が起きますが、政党政治はそれにうまく対応できませんでした。失業者が増加し、就職難が深刻化する中で、一部の財閥だけが肥え太る状況となります。徴兵された兵士の教育を通じ、大衆の窮状に接した陸軍の青年将校たちが政治への憤慨を高めていった図式だと認識しています。


筒井 その通りです。そして大正後期は軍縮の時代でもありました。第一次世界大戦終戦後、世界的に反戦平和・軍縮ムードの時代が訪れ、日本にもその波が押し寄せます。陸軍では三度にわたって軍縮が行われ、特に護憲三派内閣である加藤高明総理のもと、宇垣一成(かずしげ)陸軍大臣が断行した軍縮(1925年)は大変なものでした。三度の軍縮で約9万6400名の軍人が馘首(かくしゅ)され、この中には将校3400名も含まれていた。陸軍士官学校を出て職業軍人の道しか考えてこなかった大勢の将校たちは、再就職先も十分に配慮されないまま社会に放り出されて途方に暮れるわけです。彼らのみじめな状況は新聞記事でも報じられました。


髙杉 当時の陸軍では装備の近代化が課題になっており、軍縮によって将兵を減らして人件費を削り、浮いたお金を近代化に回そうという考えがありました。軍縮自体が間違いだったとは思いませんし、ある面ではうまくいったところもあるのですが、後始末がきわめてまずかった。クビを切られた当人はもちろん、先輩・同期・後輩らが突然クビにされるのを目にした軍人たちへの経済的・精神的フォローは十分ではありませんでした。


筒井 さらに、軍縮をきっかけに軍人の社会的地位は下落しました。軍事官庁に勤める者は、軍服だと電車内で蹴られるなど嫌がらせを受けるので私服で通勤せざるを得なかったり、若手将校の〝嫁不足〟が深刻化したり、という状況になっていく。これは髙杉さんが書いた本で初めて知って驚いたのだけど、靖国神社に参拝した軍人にひどい言葉が投げつけられたこともあったそうですね。


髙杉 満洲事変の少し前頃ですが、靖国神社大祭に参列する士官学校生徒たちに、「こいつらは、軍国主義の固まりだ」と罵声が浴びせられたといいます。これも一般的な戦前イメージとはかなり違いますね。


筒井 「軍人のような人殺しを仕事にする人間は必要がない」みたいな当時の時流に乗っただけの平和論は、局面が変わるとたちまち「軍人万歳」になっていきました。底の浅い平和主義と底の浅い軍国主義は同一物で、それはずっと変わらないと思いますね。

 そういった世相の中で青年将校は前途に希望を失い、自我の問題に悩むようになります。そこに世界恐慌が来た。兵士が死ぬと国から弔慰金が出ますから、満洲の前線にいる息子に実の父親が「必ず死んで帰れ」と手紙を送ってきたり、遺骨が帰ると遺族たちがそれを営門の前で奪い合ったりする惨状を青年将校たちは目の当たりにすることになります。

 そこで彼らが共鳴したのが、北一輝の『日本改造法案大綱』をもとに、社会の平等を求める国家改造運動(昭和維新運動)でした。この書で北は、クーデターに基づく天皇大権の発動により、華族制度・治安警察法・新聞紙条例など既存特権階級を擁護し国民を抑圧する制度の廃止や、私有財産の制限、農地改革と自作農の創設など平等主義的諸改革の断行、さらにはアジアの欧米植民地の解放を説いています。

 陸軍士官学校本科に在学していた西田税(みつぎ)はこれに感銘を受け、1925年に軍を退いて運動に加わります。西田を通して、青年将校運動の中心メンバーとなる菅波三郎・大岸頼好・末松太平らが北の影響下に入った。やがて全国の連隊でこれに加わる青年将校たちが次第に増え、軍隊内で無視できない勢いを持つ運動になっていきます。

1  2