「置き配」な社会で、ものや言葉を真に受けるための条件を考える【著者に聞く】

福尾 匠
『置き配的』/講談社

――本書のタイトルでもある「置き配的」という言葉を着想したきっかけを教えてください。


 この言葉の着想を最初に得たのは、僕はネットで日記を書いているから日付までわかるのですが、2021年11月28日のことです。最初はある種の言葉遊びとして、東浩紀の『存在論的、郵便的』に引っかけて、現代はもはや置き配的な世界なのではないかと考えていました。ちょうどコロナ禍以降に普及した置き配によって、「届ける」ことの意味が物そのものの受け渡しだけではなく、「配達完了しました」というステータスの共有を伴うものになったことに喩えました。アマゾンやウーバーイーツといった実際の物流だけでなく、SNSを始めとした情報環境も置き配的になり、すべてがポジショントークになって、言葉の内容を真に受けることがどんどん難しくなっている。

 最近思うのが、僕が専門にする哲学が現代をあまり語らなくなり、未来へのアウトソーシングばかりするようになったということです。「加速主義」しかり、「脱成長」しかり、頑張ったらいつかどこかでこういうご褒美がある、と夢を見させてくれる装置としてしか機能していない。僕は現代をそのままで語ることをやってみたかった。ただ、そうなるとSNSなどに限った話になりがちです。もちろん、SNSが息苦しくさせてもいるけど、それだけではない。プラットフォームの中とその外で起きていることを同時に語ることができる言葉が必要なはずで、それが「置き配的」だったんです。


――何が問題なのでしょうか。


「置き配的」な空間を〈密〉の空間とも言いました。今は、思ったことを言うことのリスクがものすごく高くなっている。何を言ってもその内容ではなく、その人の属性とかポジションといった言葉の裏の意味に勝手に回収され、指弾されてしまう。書き手が思ったことをそのまま書くことも、受け手が言葉を真に受けることも、どちらもどんどん難しくなっていると感じます。


――「置き配的」な窮屈さからはどう脱け出せばよいのでしょうか。


〈密〉の空間に対置させたのが〈疎〉の空間です。単に目の前の物を見てこう思いました、というメタでもなんでもない感想を恐れることなく言える空間と言ってもいいかもしれません。先ほどの哲学の話と同じで、どこか遠くに探しにいかなくても、そうした〈疎〉の空間はすでにそのあたりに転がっているはずで、それを見つけるための視点を提供したつもりです。

 本書の第9回で熱帯魚の例を出しています。熱帯魚のカラフルな色は、進化の文脈でこの色にはこういう機能があって......という説明がなされますが、順番は逆なはずです。たまたま色鮮やかな個体があるとき生まれて、幾世代もそのまま放っておかれて、そのあとで初めて「同種の他の個体を遠くから識別する」という機能が宿る。自然界は弱肉強食や淘汰圧のような〈密〉のイメージで語られることが多いですが、実は隙間だらけなんです。人間の表現というものも、そういう隙間=〈疎〉の空間に宿るものでしょう。

 僕はこれまでも「目の前にあるものや言葉を真に受ける」とはどういうことかを考えてきたのだと思います。本書は、それが可能になる社会の条件を考えた本だと位置づけられますね。


――本書では日記に注目してますね。


 日記の面白さは、自分では書くに値しないと思うものまで書く点です。熱帯魚の例で言えば機能がないものとも言える。しかし後から読むと、そうした部分にこそ、その人の固有性が宿っていたりするものです。表現とはそもそも、主体的な自己表現というより、無意識にこぼれ出てしまうその人らしさみたいなものだと思うんです。

 いまの社会に息苦しさを感じるなら、SNSの裏アカウントでもなんでもいいので、日記のような言葉を置いておくといい。紙でもネットでもどこにでも置いておけるという「言葉の軽さ」みたいなものを利用するんです。そういう空間を自分で確保しておくだけでもかなり違ってくると思います。


(『中央公論』2026年3月号より)



中央公論 2026年3月号
電子版
オンライン書店
  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • 紀伊國屋
  • e-hon
福尾 匠
〔ふくおたくみ〕
1992年生まれ。哲学者、批評家。博士(学術)。『非美学—ジル・ドゥルーズの言葉と物』で紀伊國屋じんぶん大賞2025受賞。著書に『眼がスクリーンになるとき』『ひとごと』がある。
1