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三正面作戦を強いられる日本、中ロの接近を阻め

鈴木美勝(時事通信解説委員)

 北方四島、竹島、尖閣諸島をめぐって日本外交が大きく揺れ動いている。七月三日、まず国後島訪問によって日本政府を揺さぶったのはロシアのメドベージェフ首相だ。続いて八月十日、韓国の李明博大統領が初めて竹島(韓国名・独島)を電撃訪問し、その五日後、尖閣諸島・魚釣島に香港の活動家たちが強行上陸した。ロシア、韓国、中国が連動して日本と対峙する構図。島国日本の国境伝いに連鎖爆破を引き起こした原因、背景は何か。三正面作戦を強いられた日本外交は今後、どのような戦略展開が必要となるだろうか。

■■戦略なき李明博の「独島」上陸

 領土をめぐる今回の連鎖反応の遠因は、二年前に遡る。メドベージェフ大統領の国後島訪問(二〇一〇年十一月一日)。それに強く反応したのは韓国だった。

 韓国大統領の竹島上陸を決断させたのには、メドベージェフ首相が大統領時代に続いて国後島を訪問した一件があったことは間違いない。

 竹島はアワビ漁という産業次元の必要性に端を発して日本が領有、一九〇五年、正式に日本領として編入された。サンフランシスコ平和条約では、竹島の明記はなく、事実上、日本領と見なされたが、五二年、李承晩大統領が海洋主権を宣言、竹島を韓国領に組み込んだ(「李承晩ライン」)。二年後、韓国は沿岸警備隊を竹島に派遣、実効支配に乗り出した。六五年の日韓国交正常化の際、日本側は国際司法裁判所(ICJ)提訴による決着を目指したが、実効支配する韓国は応じなかった。

 米国は当時、敗戦後奇跡の復興を成し遂げた日本に対し、北朝鮮と対峙し、冷戦の最前線国家として重要な役割を担う韓国との現状維持を期待。日本は竹島の「不法占拠」を受け入れたまま、問題先送りを容認した。問題を曖昧にしたまま構築された日韓関係の法的・実態的枠組みの構図。これが、その後、日本との国力差を詰めてきた韓国につけ入る隙を与えたのだ。

 竹島問題は韓国にとっては元々、純粋な領土問題ではなく、歴史問題として捉えられてきた。冷戦下、戦後処理で曖昧にされた「戦争責任」問題は侵略された側の外交的ツールとして使われる余地を残した。

 再びそれが問われるきっかけは昨年八月三十日、韓国憲法裁判所が元慰安婦の賠償請求権について下した判決だった。韓国政府が交渉努力をしないのは違憲だとしたものだ。韓国側が歴史問題として位置づけてきた従軍慰安婦問題について、日本側は「解決済み」の立場だったが、それが改めて懸案として浮上したことによって、親日と見られてきた李明博大統領は苦しい立場に追い込まれた。これに大統領自身の身内の事情も加わった。政権がレイムダック化する中、目先を変えるためにも飛びついたのが竹島上陸だった。

 八月十日、李明博大統領は「戦略なき上陸」を敢行した。そこには、究極のポピュリズムがあるだけだ。

■■受け身外交が国後上陸を招いた

 サンフランシスコ平和条約に署名しなかったソ連との間で、日ソ平和条約交渉が始まってから半世紀余。微動だにしなかった北方領土問題が動く気配を見せ始めたのは、一九八五年、新思考外交を掲げたゴルバチョフ書記長が登場した時だった。しかし双方の隔たりは解消せず、領土交渉がいかに至難であるかを感じさせる結果となったが、これまでに双方が勝機と見た時には水面下で様々なアイデアや妥協案が飛び交った。「二島先行返還論」「共同統治論」「二島+α論」「面積折半論」等々──。そうした中、実効支配強化に向けてロシアが進めたのが、首脳級・閣僚の北方領土訪問だった。

 ロシアの首脳級が北方領土を訪問した記録は、一九九三年、エリツィン大統領時代のチェルノムイルジン首相に始まる。その時、「ほとんど抗議らしい抗議をしていない」(玄葉光一郎外相、八月一日衆院外務委員会)。

 遺憾の意を伝えたのは、領土交渉を担当するラブロフ外相の訪問(二〇〇七年六月、国後島、色丹島、水晶島〔歯舞群島〕)の時が事実上初めてだった。

 国益を背負って展開される外交とは本来、先を読んで自身が少しでも優位な立場に立ち、優位な妥協を勝ち取ろうという知的闘争だが、ロシアVIPの北方領土訪問に関しては、明確な基準がなかった。

 こうした対応が、「日本は強く反発しない国」「国境意識が希薄な国」との印象を、ロシアばかりでなく韓国にも与えたとしても不思議ではない。

 かくして実効支配の実績が徐々に積み上げられる一方で、日本側の対応は受け身の外交しかできないという誤ったメッセージが発信された。民主党政権の未熟さも手伝って、二〇一〇年十一月一日のロシア元首の国後島訪問がいとも簡単に実現に到ったのである。

■■中ロ連動の危険を認識せよ

 竹島問題、北方領土問題と比べて、中国との尖閣諸島問題は、その性質、経緯を異にしている。というのも、中国と台湾がその領有権を主張し、日本にチャレンジしてきたのは、終戦後四半世紀も経過した一九七一年以降のこと。しかも中国側が、国交正常化の際も、日中平和友好条約交渉の時も尖閣問題を「喫緊の課題」として持ち出したことはなかったためだ。

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