東南アジアが期待する「強い日本」
日中「軍拡競争」に懸念も
ASEAN各国は今、尖閣諸島をめぐる日中間の動きを注視している。その理由をシンガポール・ナンヤン工科大学のブビンダ・シン准教授(国際関係論)は「東シナ海における中国の(日本に対する)出方を見ることで(南シナ海で今後予想される)中国の出方、軍事面など各種能力を見られるからだ」と解説する。
ただ、ASEANの中には、親中とされるカンボジアとラオスのような国もある。カンボジアが議長国だった二〇一二年七月のASEAN外相会議では、南シナ海問題で対中強硬派のフィリピン、ベトナムと対立。共同声明発表を見送るというASEAN創設以来初めての事態になったことは記憶に新しい。
そのカンボジアは、日本の防衛力整備、東南アジアでの安保プレゼンス強化をどう見ているのか。カンボジア平和協力研究所のチェアン・バンナリス上席研究員は「日中の(尖閣諸島をめぐる)争いは地域の平和と安定に脅威となる。軍事衝突の可能性も排除できない。日中双方ともカンボジアにとっては開発と戦略上の重要なパートナーだ。日中の緊張が高まることで、カンボジアは大きな戦略的ジレンマに陥っている」と言う。
ODAの受け入れ・調整窓口「カンボジア開発評議会」によると、二〇一二年の中国の対カンボジア援助(予測値)は三億四七一〇万ドルに対し、日本の援助は一億七五七〇万ドル。だが、中国の援助が大部分借款なのに対し、日本は無償支援(技術協力を含む)が三分の二以上だ。バンナリス研究員の言う通り、中国だけでなく日本との関係も重視せざるを得ない立場にあるのがカンボジアだ。
またASEAN全体にとっても、中国と日本は共に重要な域外貿易相手国。国際通貨基金(IMF)によると、二〇一一年のASEANの輸出は、ASEAN域内を除くと対中国が一二・九%で一位。一〇・一%の日本は三位だった。域内を除く輸入も、一位は中国(一四・四%)で二位が日本(一〇・七%)だった。タイ・チュラロンコン大学安全保障・国際問題研究所上席研究員のカビ・チョンキタボン氏は「日中の衝突は双方にとり破滅的な結果をもたらすもので、考えにくい」との見方を述べたうえで、「ASEANの多くの国は日中双方との良好な関係を望んでおり、(日中の緊張が続く)今は困った状況と言える」と指摘する。
日・インドネシア関係筋は「日本は緊張を高めるのでなく、安全地帯の構築に向け、東南アジアと共に働くような外交を進めるべきだ」と話す。
福田ドクトリンの遺産
現在の東南アジア各国と日本の関係を形作った外交方針の一つに「福田ドクトリン」がある。一九七七年に福田赳夫首相(当時)が発表したASEAN外交の基本線で、「日本は軍事大国にならない」「ASEANと心と心の触れあう関係を築く」「日本とASEANは対等なパートナーである」と宣言した。インドネシアの有力英字紙『ジャカルタ・ポスト』のメイディヤタマ・スルヨディニングラット編集長は「日本の防衛力にそれほど強い警戒心が生まれなかったのは、日本がこの宣言を過去三五年実践し、東南アジアに援助と投資を続けてきたことが報われた、ということではないか」と言う。
日本が「福田ドクトリン」を実践していることを示す出来事の一つが、マラッカ海峡での海賊対策をめぐる協力だ。
ペルシャ湾岸から東アジアへの主要な石油輸送ルートであるマラッカ海峡の安全確保は、言うまでもなく日本の国益と安全保障に直結する問題だ。日本は、二〇〇〇年に東京で海賊対策国際会議を開催した後、翌年には小泉純一郎首相(当時)が海賊対策での地域協力促進を提唱。国際協力事業団(現・国際協力機構)が中心となり、マラッカ海峡周辺の国々の海上警備当局者らを対象とする研修を行ってきた。二〇〇六年には日本の呼びかけでASEANなど一六ヵ国が賛同して「アジア海賊対策地域協力協定」が締結され、締約国のための情報共有センターがシンガポールに置かれた。
メイディヤタマ氏は「アメリカや中国なら、海賊対策、テロ対策と言うとすぐに、自国の艦船を現地に送り込んでくるところだ。日本はそんなことはしなかった」と話す。直接的な軍事的プレゼンスは示さず、海峡周辺国による取り組みを後押しする日本のやり方が安心感を与えるものだったという。これに対し、アメリカは二〇〇四年にマラッカ海峡警備のため海軍特殊部隊派遣の意向を表明したが、インドネシアとマレーシアの猛反発を招いて頓挫した。
タイ・チュラロンコン大のカビ氏は「日本はすでに一九九〇年代初めに憲法解釈見直しを行ったが、それはカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)参加を可能にするのが目的だった。今後行われる憲法の解釈見直しが日本の自衛力の向上につながるものであるなら、それが(福田ドクトリン以来の)路線修正につながるものなのかどうか、近隣国への説明は欠かせないだろう」と述べ、日・ASEAN間の「対等な関係」に基づく丁寧な対話がこれまで以上にカギを握るとの見方を示す。
日本が南シナ海問題への関与を深めていることについても、シンガポール・ナンヤン工科大のシン准教授は「それ自体は歓迎すべきことだが、日本の関与でASEANの結束が乱れるようなことがあってはならない」と述べる。日本がフィリピンやベトナムに接近する一方で、対中関係を重視せざるを得ないカンボジアや、日中双方と良好な関係を維持してきたタイなどを居心地悪くさせない配慮と、何よりも日中関係を極端に悪化させない努力が重要になるという指摘だ。ASEANは二〇一五年末までの経済共同体発足を目指しており、加盟国間の調整が大詰めにさしかかっている時期でもある。その成否は、日本経済の回復にも大きな影響がある。
日本の「自信回復」
九月七日(現地時間)に二〇二〇年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決定し、「七年後の日本」について様々な予想が行われるようになった。アジアの識者の間では、日本が急速に自信を回復し、経済だけでなく政治・安全保障面でもリーダーシップを発揮するようになるといった議論が聞かれる。
ASEANと並んで、日本がアジアで対中牽制のパートナーと目してきたインド。首都ニューデリーの調査研究機関「アジア戦略研究センター」のA・B・マハパトラ所長は「中国は、北京五輪後すぐに地域での自国の存在を誇示し始めた。だから東京五輪を機に日本もそうした態度に出ると見て、警戒を強めることだろう」と述べ、当面、日中の緊張が高まることは避けられないと予想する。そのうえで、マハパトラ氏は、「中国がそういう出方なら、日本は逆に、五輪開催で高まる存在感を平和と地域の協調の追求に利用する姿勢を強調すればよい。それによって中国との違いを際立たせることができるし、第二次大戦の負のイメージ払拭にもつながるだろう」と話す。
五輪という目標を得て自信を回復した「強い日本」。その日本が、中国の台頭で崩れかけた地域のパワーバランスを是正する。今のアジアには、そんな期待も生まれようとしている。
(了)
〔『中央公論』2013年11月号より〕