現場を無視した国会の議論

神本光伸(元ルワンダ難民救援隊長)×勝股秀通(読売新聞調査研究本部主任研究員)

ナンセンスだった機関銃の議論

勝股 集団的自衛権に関する議論が現在、進んでいます。集団的自衛権の行使が容認されるかどうかは、今後の日本の防衛体制と自衛隊の活動を左右する重要なポイントといえますね。そこで、陸上自衛官としてPKO活動に参加し、国際的な常識から見た自衛隊の現状について身をもって知る神本さんに、経験を踏まえてお話をお聞きしたいと思います。

 神本さんが指揮官を務めたルワンダ難民支援活動は、自衛隊の国際活動の中では最も過酷だったと言われています。まず、活動拠点のザイール(現コンゴ民主共和国)に出発する前後の状況を教えていただけますか。

神本 一九九四年七月にルワンダの難民支援をめぐり、政府は人的貢献について検討を始めました。私が連隊長だった旭川の第二後方支援連隊は、国際緊急援助隊の待機任務を終えたばかりで各種のワクチンを打った隊員がおり、有力候補とみられていたのです。そのころは、派遣部隊には武器を持たせないという話が出ていた。そして、九月一日になって派遣が正式に決まりました。

 すると今度は現地の治安が問題となり、機関銃まで持たせるという話になった。機関銃は部隊を防護する装備ですが、当時のPKO協力法には、部隊として武器は使ってはいかんと書いてあるのです。個人として正当防衛、緊急避難で使用できますが、これは軍隊でなくても、世界中誰もが持つ権利であり、部隊を守る発想ではありません。ルワンダ難民支援はPKOではありませんが、我々はPKO協力法に基づく人道支援として派遣される。その法律の中にあるPKO参加五原則に「派遣の条件が満たされなくなれば撤収できる」とあったので、最後は逃げる覚悟さえしていればいいんだと。いずれにしても現場では難しい判断を迫られるな、と考えていました。

勝股 当時、私もザイールで取材したので分かるのですが、現地の治安は非常に悪かった。それで、自衛隊の国際活動では初めて警備小隊を編成して機関銃を持って行くことになりました。ところが国会では派遣部隊に機関銃を二丁持って行かせるという意見と、持っていくのはだめだとの意見があり、間をとって根拠のない一丁となった。国会の議論を聞いていてどう思いましたか。

神本 率直に言って「ナンセンス」と思いましたね。宿営地を守る場合、一丁だと左右に振り回してもせいぜい一八〇度で後ろは守れない。もし我々が死んだ場合に誰が責任を取ってくれるのか、決めた方の責任はどうなるのか、家族にどう説明するのか。国会の議論では責任が拡散してしまい、派遣する側の責任が曖昧になるような気がしました。派遣される側としては、国会の議論に不信感を持ちましたね。

追いつかない法整備

勝股 最初から現実との乖離をひきずったまま現地に行ったわけですね。派遣部隊の任務はルワンダ難民らに対する医療、防疫、給水などに限られ、たとえ日本人が危機に陥っていても救出に向かう権限はありませんでした。PKO協力法に基づく自衛隊の国際活動では、要人の警護や救出という活動は、憲法九条で禁止する武力の行使につながりかねないとして、任務から除外されています。しかし、日本の医療NGOのAMDA(旧称・アジア医師連絡協議会)が難民に襲われたとき、まさにその矛盾が現実となりました。

神本 十一月三日の朝、私が日本からの来客を空港で出迎えているときに、「AMDAが難民に襲われて車を強奪された」と連絡が来ました。日本人が襲われているのに何もしないわけにはいかないので、法律の問題はあるがとりあえず救出に行けと。日本人が襲われるのを放置すればまた狙われる可能性があるので、「小銃、鉄帽、防弾チョッキを忘れるな。必要なら少し脅すぐらいの心構えでやれ」と過激な指示をしました。人員二二名で現地に行き、難民キャンプで日本人を含む一三人と合流して無事にゴマ市内に輸送しました。でも宿営地に戻ると記者から責められました。「救出ですか」と確認を求められ、「救出に行けと命じた」と説明すると、「業務実施計画に救出は入っていませんよね?」と糾弾口調になって。

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