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アジア人ヘイト問題 日本人と企業に問われる覚悟 渡邊裕子

渡邊裕子(コンサルタント・ライター)

偏見と女性憎悪が絡み合った事件@アトランタ

 アジア系への差別や暴力は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大とともに目につくようになった。その相関関係については後に述べるが、問題が広く認識されるきっかけとなったのは、三月十六日、アトランタ郊外で起きた事件だろう。

 この日、マッサージ店三店が銃撃され、八人が亡くなった。そのうち六人がアジア系女性(四人が韓国系)だったが、警察は、事件直後「容疑者が人種差別を否定している」と、ヘイトクライム(憎悪犯罪)ではないとの見解を発表し、論争を巻き起こした。「射殺された八人のうち、六人がアジア系だったのは偶然だとでも言うのか?」と。

 容疑者は、自分がセックス依存症で、誘惑を断つために性的サービスを提供する店を襲撃したのだと述べている。しかしこれに対しては、「彼の動機は、アジア系への偏見とミソジニー(女性憎悪)が根本で絡み合っている。その二つをきれいに分けることはできないのでは」という指摘が数多くなされている。私もそれに同感だ。実際、異人種間の暴力・攻撃・殺人は、男性が加害者で女性が被害者であることが圧倒的に多い。そこには複数の力学が働いていると考えるのが妥当だろう。

 そもそもヘイトクライムは、立証が難しいことで知られる。今回のケースであれば、「相手がアジア系だったために犯行に及んだ」ことを検察側は証明しなければならない。しかし、誰かの頭の中に特定グループへの憎悪があるかどうかを、いかにして実証すればよいのか。事件前後に人種差別用語を発したり書き残したりしない限り、現実的には難しい。

 例えば、「ProPublica」という非営利報道機関の分析によると、二〇一〇年から一五年にかけてテキサス州で「ヘイトクライムの可能性がある」と警察に通報のあった事件は九八一件に上ったが、結果的に有罪判決に結びついたのはたったの八件であったという。

海野雅威さん暴行事件@ニューヨーク

 ニューヨークに住む我々日本人にとってアジア系へのヘイトが一気に身近になったのは、昨秋に起きた一つの事件からだった。

 九月末、ニューヨークに住むジャズ・ピアニストの海野雅威さんが、地下鉄の駅で八人ほどの若者から殴る蹴るの暴行を受け、右鎖骨骨折や頭部打撲などの重傷を負った。後に彼が語ったところでは、集団のうち少なくとも一人は「アジア人」「中国人」という言葉を使いながら彼を殴っていたとのことだが、警察は、人種差別が集団暴行につながったことを示す証拠はないとして、この事件もまた、ヘイトクライムに分類しなかった。この事件は『ニューヨーク・タイムズ』紙、CNNはじめ多くのメディアで大きく取り上げられ、彼の治療費のためのクラウド・ファンディングは一週間で一二万二〇〇〇ドルを集めた。しかし、海野さんの受けた傷は重く、再びピアノを弾けるようになるかも、ニューヨークに暮らし続けることができるかもわからないという(海野さんは治療のため日本に帰国中)。

 海野さんは『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューで、二〇〇八年からニューヨークに住み、ジャズの世界で黒人たちに交じってずっと仕事をしてきたけれども、この街で人種差別を経験したことは一度もなかった、だからこそショックが大きかったと語っている。「かつては太陽のように自分を引きつけたニューヨークだが、今はそこから離れることを考えている」と。その心の傷を想像すると、軽々しく「ニューヨークに戻ってきてまた頑張って」などとはとても言えない。

アジア系ヘイトは本当に増えているのか?

 前述の通り、ヘイトクライムの実態を正確に知ることは難しいが、最近の様々なデータを見ていると、アジア系に対するヘイトクライムは確かに増えていると考えざるを得ない。人権団体「Stop AAPI Hate」によれば、昨年三月十九日から今年二月二十八日の間に約三八〇〇件のAAPI(アジア系および太平洋諸島系のアメリカ人)を標的にしたヘイトクライムの報告がなされたという。これには肉体的な暴力のみならず、言葉による攻撃も含まれる。また、六八%が女性を標的にしていることにも注目すべきだろう。

 カリフォルニア州立大学サン・バナディーノ校「憎悪・過激主義研究センター」の調査によると、全米の主要都市で二〇二〇年に起こったヘイトクライムは全体では前年比で七%減少したものの、アジア系に対する件数だけを見ると、前年比で二・五倍に跳ね上がっている。

 同センターは、アジア系人口の多いニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストンなどを中心に被害が増加し、中でもニューヨークの増加率が高いとしている。ニューヨーク市警察のデータによれば、アジア系ヘイトクライムは、二〇一九年は三件だったが、二〇二〇年は二八件に上った。この傾向が続けば、今年はそれよりも増えるだろう。

 

(『中央公論』2021年6月号より一部抜粋)

渡邊裕子(コンサルタント・ライター)
〔わたなべゆうこ〕
ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修士課程修了。1993年渡米、96年よりニューヨーク在住。2019年コンサルティング会社「HSW Japan」を設立。複数企業の日本戦略アドバイザーを務める傍ら、執筆活動を行う。
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