神保 謙 追悼 中山俊宏 孤独な探究心を持ったヒューマニスト

神保 謙(慶應義塾大学教授)

 中山さんと初めて会ったのは、1998年6月にマレーシア・クアラルンプールで開催された「アジア太平洋ラウンドテーブル」(APR)という国際会議だった。この会議は、当時のアジア太平洋地域の安全保障協力を議論する政府・非政府関係者が集うトラック2会合の中核を担っていた。

 中山さんは、国連日本政府代表部専門調査員として2年間のニューヨーク勤務を終えて、帰国後に外交シンクタンクである財団法人日本国際問題研究所(国問研)に研究員として就任した。同研究所は、当時多くのトラック2外交の事務局を担っており、中山さんも担当研究員としてAPRに参加していた。

 同時期にハーバード大学が主催するHPAIRという学生会議がクアラルンプールで開催され、私も大学院生として会議に出席していた。APRを主催するマレーシア戦略国際問題研究所(ISIS)を率いていたノルディン・ソピー会長が、「次世代の声は重要だ。APRで学生たちのパネルセッションを組もう」と発案し、HPAIRの学生代表者がAPRの特別セッションで発表をすることになった。その代表に私も選ばれることとなったのである。

 HPAIR代表としてパネリストに選出されたことは光栄だったが、並みいる外交官や専門家の前で何を話してよいものか、と緊張が高まった。そのとき、メイン会場近くに立っていたのが中山さんだった。私は日本人参加者を見つけ、藁にもすがる気持ちで挨拶をした。すると中山さんの反応は、「いえいえ、私はこういう分野はあまり専門じゃないのですよ。アドバイスを期待されても困ります」という素っ気ないものだった。

 いざ登壇してみると、会場には見渡す限り200人ほどの専門家が座っていて、眩暈(めまい)のする思いだった。そこで私はたどたどしく、日本の安全保障政策が日米防衛協力のガイドラインを通じて地域に拡大するようになった、日本は地域安全保障により大きな責任を果たしていく、という趣旨の発表をした。

 試練は質疑応答の時間に訪れた。おもむろに手を挙げた中国の大使級の外交官は窘(たしな)める口調で「このヤングジャパニーズは、歴史を知らない。日本が戦時中、中国に何をしたか知っているのか。歴史を学べ。安全保障の話はそれからだ」と私を指差し、これ見よがしに叱責した。別の中国人外交官も続いて挙手して、「日本人は歴史を学べ」と強い口調で繰り返し批判した。会議場は凍りつき、200人の視線が私に集まった。

 そのとき、私は暗澹たる気持ちになりながらも、ここで立ち往生してはいけないという思いが湧き上がった。ちょっとした闘争心だったように思う。そして、私を叱責した中国人外交官の方を向き、「中国もまた、変化する新しい世代の日本を直視すべきだ」と言い放った記憶がある。

 後に中山さんは、「あの国際会議の場で孤軍奮闘する神保さんを見て、日本を背負うというのはこういうことなのか、と思いました」と、このエピソードをよく持ち出した。自分としては不慣れな国際会議での振る舞いで、関係者には迷惑をかけたとばかり思っていたのだが、中山さんはこうした言葉で私の経験を肯定的に受け止めてくれた。

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