君塚直隆×池田嘉郎 歴史に見る独裁と統治のリアル
二つの異なる帝国
──ロシア帝国からは大英帝国や欧州諸国は、まったく自分たちとは別の統治機構、別世界のように見えていたのでしょうか。
池田 少なくともロシアは欧州列強の一員だと自負していたはずですが、19世紀の半ばあたりから、欧州諸国では議会設立や選挙権の拡大など、国民国家作りが進みます。明治政府もまた、プロイセンをモデルに1889年に大日本帝国憲法を制定し、翌年には初の民選選挙である衆議院議員総選挙を行っています。
ロシアも欧州諸国が国民国家化により統合力を高めていることは、認識していました。イギリスが参戦したクリミア戦争でも負けていますし、自分たちとは別のシステムで経済や産業が活性化していることはわかっていたわけです。
しかしながらあまりにも多元的すぎるロシアでは、「一つの国民と一つの国家」たる国民国家の概念を導入することは容易ではありません。他方で、新しく登場する都市の自由主義者、あるいは貴族の中でも改革的な人々は、議会と憲法によるシステムに変えなければ、国家の統合力はいつまでも生まれないと主張し始めます。
とりわけウクライナやポーランド、いわゆる少数民族の活動家から、大英帝国の後追いを主張する声が強くなります。カナダやニュージーランドなどの植民地が、ドミニオン(自治領)として自治の水準を高めていたことで、彼らもそれを求めたわけです。
しかし思想は同じでも、ロシア帝国側の自由主義者はその案には同調しません。彼らはあくまでも大国ロシアとしての自由を求めているので、国を割ることはしたくない。フィンランドやポーランドのように独立を求める動きが激しい地域はともかく、ウクライナやジョージアは帝国の一部でいいだろうと彼らは主張します。
「大英帝国でもカナダやニュージーランドのように文化水準が高い地域は自治領でも構わないが、インドのように多民族の地域は、帝国がなければお互いに殺し合うに決まっている。ロシア帝国でもコーカサスのように少数民族が入り乱れる地域ではそうなるに違いない。だから強力な中央権力が必要なんだ」と、中央の自由主義者はここでもやはり大英帝国を引き合いに出して主張していました。
──引き合いに出されたイギリスは、ロシアをどのように見ていたのでしょうか。
君塚 やはり専制的、強権的というネガティブなイメージがありました。特にカトリックの文化圏であるポーランドを弾圧したことへの反発は大きく、中産階級から労働者階級にいたるまで、反露感情は根強いものになりました。
それがご存じの通り、ロシア皇帝の運命すらも左右します。1917年に十月革命が起こり、ニコライ2世は従兄弟のジョージ5世治下のイギリスへの亡命を希望し、政府も彼の受け入れを国王に打診します。しかしイギリス王室はロシア皇帝一家の亡命に反対し、ニコライ一家はエカテリンブルクに幽閉され、最後は地下室で銃殺刑に処されています。イギリスとロシアは第一次世界大戦では同盟国でしたが、それでも友好的な関係は築けませんでした。
池田 ロシアで憲法ができるのは1906年ですが、その前後には自由主義者を中心に、皇帝が全てを牛耳る体制への批判が巻き起こっています。日露戦争の敗戦も批判を後押しして、皇帝も譲歩して憲法発布となったわけですが、結局それでできたのはドイツや日本と同様に、政府が議会に対して責任を負わず、皇帝のほうだけを向いている体制でした。特定の政党が大半の票を得たところで、そこから首相や大臣を出すという仕組みではありません。
ロシアの自由主義者が理想としたのは、イギリスの議院内閣制です。ただ改革を急ぐと、民衆が街頭を占拠して革命を起こすような事態を招きかねない。だから憲法や議会の上位に皇帝が君臨する構図を、リベラルも否定しきれないのです。いわば専制という統治形態がロシアの国体となってしまっている点で、主権を議会に置いたイギリスの立憲君主制とは根本から違うと言えます。
(続きは『中央公論』2023年3月号で)
構成:柳瀬 徹
1967年東京都生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『物語イギリスの歴史』『エリザベス女王』など。
◆池田嘉郎〔いけだよしろう〕
1971年秋田県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京理科大学准教授などを経て現職。専門は近現代ロシア史。著書に『革命ロシアの共和国とネイション』『ロシア革命』など。