井上弘貴 変容と再編が進むアメリカの保守主義――ネオコン、ペイリオコン、オルトライト、ポストリベラル保守......
戦後アメリカ保守の主流と傍流
アメリカの保守の知識人たちはかつて、主流と傍流に大別が可能だった。主流とは、1955年にウィリアム・F・バックリー・ジュニアらニューライトによって創刊された『ナショナル・レヴュー』誌を中心とした潮流である。ニューライトとは、この世には客観的な道徳的秩序があると主張する伝統主義と、自由をなによりも擁護するリバタリアニズムとを反共主義によってつなぎあわせた、いわゆる融合主義(フュージョニズム)という立場をとる知識人たちのことだった。80年のレーガンの大統領選挙勝利で頂点に達する、アメリカ政治における保守の勢力伸長を思想の観点から牽引してきたのがかれらだった。
それにたいして傍流は、主流によって正統ではないものとして、周縁に置かれてきたさまざまな潮流を指す。バックリー・ジュニアたちによって運動としての保守主義から絶縁されたジョン・バーチ協会が、たとえばそうである。戦後、アメリカのいたるところにコミュニストが入り込んでいる。公民権運動の黒人たちを裏で操っているのはコミュニストであり、アイゼンハワー大統領も実はコミュニストである。そのように主張して反共主義と陰謀論の境界を見失ったジョン・バーチ協会は、長らく主流から排除されて現在にいたっている。異端のキリスト教解釈にルーツをもつ民兵(ミリシア)の極右組織や、KKKを含めた白人至上主義の諸団体も、脇へと追いやられてきた。戦後アメリカの保守主流は、陰謀論や過激な暴力主義に彩られた諸潮流を非正統的なものとして封じ込める、言わばゲートキーパーとしての役割を果たしてきたのだ。
こうした主流にあとから合流していったのが、その多くは左派からの転向者であり、しかもユダヤ系であるいわゆるネオコン(ネオ・コンサーヴァティズム)だった。アーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレッツのようなネオコン第一世代の知識人は、ジョンソン政権の福祉プログラムである「偉大な社会」は貧困の解決ではなく、むしろ福祉への依存の連鎖という意図せざる結果をもたらしていると批判した。それに加えてかれらは、ニュークラスと呼ばれる大卒の専門職やその予備軍である大学生たちがアメリカの既存の価値観を壊そうとしていることに反発して、60年代にリベラリズムに背を向けて保守の陣営につらなった。
ちなみにかれらのニュークラス批判は、今日でも保守の共通財産になっている。たとえばクリストルの薫陶を受けつつ、ネオコンとのちに決別したマイケル・リンドは、近著の『新しい階級闘争──大都市エリートから民主主義を守る』のなかで、大卒の専門職エリートがアメリカ社会の格差を拡大させてきた支配階級であるとして痛烈に批判している。
融合主義の一要素であるリバタリアニズムゆえに、政府の際限ない肥大化の最たるものであるニューディールを敵とみなした従来の主流とは対照的に、ニューヨークのゲットーに出自をもつネオコン第一世代のユダヤ系知識人たちは、ニューディール自体に必ずしも批判的ではなかった。従来の主流とは異なる部分をもちつつも、しかし反共主義という点で劣るところのないかれらは、バックリー・ジュニアたちに温かく迎え入れられた。
もちろん傍流とて、一方的に押し込められたままではなかった。主流と傍流はときに激しく対立する。対立がもっとも先鋭化したのが、主流の一角を占めるようになったネオコンと、傍流を代表するペイリオコン(ペイリオ・コンサーヴァティズム)との冷戦終結後に顕著になった衝突である。後続世代のネオコンは、アメリカのデモクラシーに敵対的な価値観をもつ国や集団を先制攻撃することは許されるだけでなく、道徳的にも正しいことだと主張し始めた。
9・11以降、かれらはアフガニスタンとイラクへの派兵を支持し、場合によってはそれを政策的に主導していった。それにたいして、南部農本主義にルーツをもち、移民反対と対外的介入反対を掲げるペイリオコンの知識人たちは、反戦の立場をとった。ネオコンはそのようなペイリオコンに「非愛国的保守」というレッテルを貼った。
台頭したネオコンのインパクトは大きく、日本でもセンセーショナルに紹介されて、武器の供出や派兵を積極的に主張する論者は今でも、誰かれかまわずネオコンと言われるほど、その存在や影響は過大に扱われている。それに比べれば、ペイリオコンは日本でほとんど注目されずにきた。トランプの登場によってアメリカ政治の絵図が大きく変化したように感じられたとしたら、その原因の一端は、日本での知名度における保守の主流と傍流とのあいだの圧倒的落差にあるとも言える。