吉田 徹×東島雅昌 「投票=民主主義」という幻想――「進化」する権威主義、後退するリベラル

吉田 徹(同志社大学教授)×東島雅昌(東京大学准教授)

似通う二つの政治体制

――選挙独裁制が広がるのと時を同じくして、民主主義国ではポピュリズムが台頭しています。


吉田 ポピュリズムの波はここ数年でやや小さくなった感がありますが、24年のアメリカ大統領選の結果次第では、再び大きくなる可能性があります。ポピュリズム台頭の背景には既成政党の凋落があること、つまり現状に対する強い不満や否認があることを理解しなくてはいけません。

 不満や否認がどこから来るのか――一つは「進歩の時代」が終焉しつつあるということです。経済学者のトマ・ピケティは『21世紀の資本』で「1914--1945年体制」と表現していますが、2度の世界大戦時の総動員体制を経て、戦後は各国が競うように社会国家、福祉国家へと変貌していきました。ソ連との競争がこれに拍車をかけました。ここから70年代前半まで、先進諸国ではかつてなかったほどの豊かさと平和を享受することができました。しかしその後は徐々に、社会保障支出が頭打ちになり、不平等が広がり、先進国では数十年にわたって所得が増えないという、19世紀以来、人類が初めて経験する長期停滞が起こります。先進国では、子ども世代が自分たちほど豊かにならないと考える人々が初めて過半数を超えるようになりました。

 次に、そもそも今の政党政治の基盤となったのは、産業革命によって生まれた資本家と労働者の対立軸です。賃金や労働条件であれば、数年ごとに選挙が行われるサイクルの中で、政治家は課題を解決することができました。しかし、環境問題や経済格差といったイシューは議会政治のサイクルでは解決できません。長期的に数世代をかけて解決を図らなければならず、選挙サイクルとは適合しないからです。こうした現状への不満は、全般的な政治不信へとつながっていきます。

 民主主義である限り、この状況を変革するには、人々が共同体の意思決定プロセスに、いっそう参画する必要があります。しかし政治への共同参画を支えるインフラだった人々の結びつきや中間共同体、その源となるソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が社会の個人化によって衰退していて、右であれ左であれ極端な思想や政策を掲げる新興勢力があっという間に台頭してくる要因にもなっています。またそれは、民主的なプロセスを経ずに意思決定を行う権威主義を待望する層が拡大する要因ともなっているのでしょう。


――ここまでのお話から、民主主義と権威主義の境界があいまいになりつつあるように思えます。


吉田 そのとおりです。そもそも二つの体制を二分する明瞭な境界はなく、中間には両者の混じり合った領域があり、どちらの成分が濃いかをグラデーションで捉えるべきだというのは、政治学者にとって概ねの共通了解です。


東島 はい。政治学者のスタファン・リンドバーグらが運営するV−Dem研究所が発表している「リベラルデモクラシーインデックス(LDI)」という指標を使って、2000~20年の期間で国際比較をしたことがあります。LDIはロバート・ダールが提唱した「ポリアーキー(政府に対する異議申し立てと広範な政治参加が可能な民主主義体制)」の概念に基づいた選挙の競争性や公正さの次元に加え、自由主義の側面、すなわち法の下の平等や権力抑制の要素を組み合わせて国・地域の自由民主主義度を測定したデータです。これによれば、00年頃にはLDIが高いとされていた国々が、20年までには軒並み権威主義に近づいていて、逆にLDIが低かった国が民主主義に近づいていることが見て取れました。民主主義と権威主義の要素を併せ持つ「混合体制」の国が、全体として増えつつあると言えます。

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