テクノ・リバタリアンと"敗者"の奇妙な共闘

橘 玲(作家)
写真:stock.adobe.com
(『中央公論』2025年5月号より抜粋)

エニウェア族とサムウェア族

 10年以上前のことだが、マラケシュの旧市街にあるルーフトップバーで酒を飲んでいた。客は外国人旅行者ばかりで、私の隣では若いカップルと1人の男が地図を見ながらドイツ語で旅の話をしていた。カップルが先に店を出ると、男は店主とフランス語で話しはじめた。

 それが終わると、男は私に笑いかけ「どこから?」と英語で訊いた。「日本だよ」とこたえ、スーク(市場)へはどう行くのか尋ねると、男は道順とスークで上手に買い物をする方法を丁寧に教えてくれた。

「いろんな言葉を話せるんだね」というと、自分はオランダ人で、旅行が趣味であちこち旅しているあいだに、現地の言葉を覚えたのだと説明された。英語、ドイツ語、フランス語のほかに、イタリア語とスペイン語もそこそこ話せるのだという。

 メキシコシティでマヤ文明の遺跡をめぐる現地ツアーに参加したときも、同じような体験をした。昼食でたまたま同じテーブルになったのは若いカップルで、女性はイタリア人、男性はクロアチア人だった。2人は英語で会話していて、ロンドンのシティで働いているのだという。世界金融危機の混乱がつづいていた頃だったので、女性に「イタリアは大変そうだね」というと、彼女は困ったような顔をして、「そういうことには興味ないの」とこたえた。

 こうして私は、ヨーロッパに2種類のひとたちがいることに気づいた。ひとつは複数の言葉を話す「マルチリンガル族」、もうひとつは現地の言葉しか話せない「モノリンガル族」だ。その後これは、どこでも暮らすことのできる「エニウェア(Anywhere)族」と、生まれ育った土地で生きていくしかない「サムウェア(Somewhere)族」と呼ばれるようになった。よりわかりやすくいえば、エリートと非エリートだ。

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