内沼晋太郎 日記を書く意味、読む愉悦――専門店を開いて気付いたこと

内沼晋太郎(NUMABOOKS代表)

どこまで書くか、誰になら読まれていいか

 かつて日記とは、自分のためだけに密かに付けるものでした。それが今ではネットに上げたり、ZINEに仕立てて販売したりと、公開する人がどんどん増えてきた。とても不思議な傾向ですが、どこまでオープンにするかは人によってかなりグラデーションがあるようです。

 日記は誰にも見せないという人もいれば、親しい人になら見られてもいいという人、親しい人にだけは見られたくないけれど、せっかく書いたから誰かには読まれたい、という人もいる。「月日」では、毎週匿名で日記を投稿すると、メールマガジンのメンバーにだけ配信され、知らない人が読んで感想を言ってくれるオンラインコミュニティ「月日会」を運営しているのですが、このサービスの参加者は、「誰かには読まれたい」人です。逆にブログに載せたり出版したりする人は、自分の日常を誰に読まれてもいいという人なのでしょう。

 家族にだけは読まれたくない、という人は、日常の行動が制限されることを恐れているのかもしれません。日々顔を合わせる家族に自分の本当の考えを知られてしまうと、日常生活に支障が出ますからね。

 石川啄木が妻に読まれないようローマ字で付けていたという『ローマ字日記』には浮気の様子が克明に記されていますが、それほど大きな秘密でなくても、支障が出ることはあります。

「家族がこういうことをして嫌だった」という程度の小さなモヤモヤを日記に書き留めておいたとする。直してほしいほど嫌なわけではなくても、本人が読めば「じゃあ直すよ」となる可能性がある。それは居心地が悪い。一緒に暮らしている人への影響を気にしていると、思ったことを自由に書けなくなってしまいます。

 これは家族観の違いとも言えるかもしれません。「家族とはいえ他人であり、共に暮らしていく上で最低限の距離はほしい」と考える人は、家族にだけは日記を読まれたくないし、「家族にはすべてをオープンにすべきだ」と考える人は、家族になら日記を読まれてもいいと思う。

 つまり、多くの人が「どこまで書くか」の線引きを意識的に行っているのです。表現としての文章を書くとき、そこには誰かに伝えるという目的が必ずありますが、伝える相手が自分一人なのか、親しい人なのか、不特定多数なのか、日記を書く人はちゃんと心得ている。啄木だって、誰かに伝えたい気持ちはあるけれど、近しい人には知られたくないから、読める人には読めるローマ字を使ったのでしょう。

 SNSの影響で自分の文章を他人に読まれることへの抵抗が薄れている一方で、「ここまでは他人に言えるけど、これは自分の中だけ」という線引きをコントロールできる人も増えていると感じます。誰もが「見られる自分」と「本当の自分」を行き来するトレーニングを、日々SNSを通して行っているのです。

(続きは『中央公論』2024年1月号で)


構成:高松夕佳

中央公論 2024年1月号
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内沼晋太郎(NUMABOOKS代表)
〔うちぬましんたろう〕
1980年生まれ。ブック・コーディネーター。株式会社バリューブックス取締役、新刊書店「本屋B&B」共同経営者、「日記屋 月日」店主として、本にかかわる様々な仕事に従事。また、東京・下北沢のまちづくり会社、株式会社散歩社の取締役も務める。著書に『これからの本屋読本』『本の逆襲』など。現在、下北沢と長野・御代田の二拠点生活。
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