菅政権が見逃した中国「強気の中の脆さ」

清水美和(東京新聞論説主幹)

 さらに中国が自制したのは、尖閣周辺の海域で主権を誇示し日本に抗議する活動だ。この点で中国が、どれほど「我慢強かった」かは、二〇〇八年六月、尖閣海域で台湾の遊漁船と海保巡視船が衝突し遊漁船が沈没した事件と比べれば明らかだ。遊漁船の乗員・乗客は全員救助され船長も取り調べ後、釈放されたが、台湾の劉兆玄行政院長(首相)は立法院(議会)答弁で尖閣の領有権確保のためには「開戦も排除しない」と述べた。事実上の大使に当たる許世楷台北駐日経済文化代表処代表が召還され、事件から六日後には台湾から出港した民間抗議船を護衛して巡視船九隻が尖閣周辺の領海に侵入し海保巡視船と対峙した。この日、中国海軍の東海艦隊も極秘裏に台湾近海に駆逐艦二隻と護衛艦一隻を待機させ衝突が起きたら台湾を支援する態勢を取ったという(中国紙『国際先駆導報』)。

 台湾では国民党の馬英九政権が〇八年五月に発足してから日が浅く、親日的だった民進党の前政権と異なる厳しい対日姿勢を打ち出す必要があった。また、台湾は日本と外交関係がなく、「直接行動」以外、対抗手段を持たなかったという事情もある。今回の事件をめぐり中国では台湾と比較して政府の「弱腰」を批判し、「海軍を出動させよ」という声がインターネット上にあふれた。しかし、中国政府は香港と台湾の活動家が乗り込み尖閣海域を目指した抗議船を護衛しなかった。別に尖閣海域に向かった中国の漁業監視船も海保巡視船に阻止されると日本領海侵入を断念した。

 中国の海上保安庁に当たる海監総隊の巡視船は尖閣海域に向かうことはなく、海軍も後方支援に出動しなかった。これは海軍や、その別働隊とも言える海監総隊が出動すれば胡政権の思惑を超え事態がエスカレートする恐れが強かったためだ。背景には、胡政権が海洋権益問題で党・軍内の強硬論に譲歩を重ね、海上警察力や海軍を十分にコントロールできないという事情がある。

海洋権益確保の要求

 胡政権は日本を重視する姿勢をとってきたことで知られ、今回の強硬な対応には政府高官にも意外感を口にする人が多い。確かに胡政権は〇六年十月、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題で五年も首脳相互訪問が途絶えていた日中関係を、安倍晋三首相の公式訪中を受け入れ打開した。安倍首相の靖国に行くとも行かないとも言わないという態度を、事実上の参拝断念と受け止め歓迎したのは胡主席の決断にほかならない。

 胡主席自身、〇八年五月に来日し早稲田大学での講演で「歴史を語るのは未来のため」と語り、日本の明治以来の近代化や戦後の平和的発展を公式に評価した。胡政権に先立つ江沢民政権が歴史問題を言い立て日中関係を悪化させただけに、胡主席の姿勢は日本各界から好意的に受け止められた。

 〇八年六月に日中両国は双方の主張する排他的経済水域(EEZ)が重なる東シナ海で、主権問題を棚上げし長年の懸案だったガス田の共同開発で合意した。胡政権の対日外交は頂点を迎えたが、実はそれが暗転の始まりになる。日中の合意に中国国内では、日清戦争で台湾を日本に割譲した下関条約(一八九五年)以来の「売国外交」という厳しい批判が党・軍内から噴き出した。とくに日本が主張するEEZの日中境界線の中国側で、中国が多くの年月と資金を費やし開発した春暁(日本名・白樺)ガス田に日本の出資を受け入れることは激しい反発を買った。最高指導者が主導した合意にもかかわらず、日本の出資をめぐる条約交渉は開始まで二年を要し、開始後まもなく尖閣事件で中断の憂き目を見た。

 ガス田共同開発の合意に対する反動のように中国では海洋権益確保の主張が高まり、「海洋国土」の防衛が叫ばれるようになった。海洋国土とは、領海のみならず周辺の接続海域やEEZを含む管轄海域全体を指す中国独特の表現で、メディアでは盛んに登場する。それによると、三〇〇万平方キロメートルに及ぶ中国の「海洋国土」のうち「中国が実際にコントロールしているのは半分にも満たず、海洋資源が関係国に大量に簒奪されている」(『国際先駆導報』)という。

 〇八年十二月には尖閣周辺の日本領海に海監総隊の巡視船二隻が侵入し九時間も徘徊して尖閣への主権を主張する前代未聞の事件が起きた。海監は海保に当たる政府機関だが、前身の海軍海洋調査隊が一九六四年に創設された当時から要員も海軍で訓練し、海軍の別働隊と言える。中国の外交筋によると、その後の内部会議で、この航行を指揮した司令官は尖閣周辺侵入時に無線を切り、外交問題になるのを恐れる本部の帰還命令をさえぎったと得意げに報告したという。その後も司令官への処分は行われておらず「愛国的行動」として追認されたようだ。

 胡主席自身、〇九年三月の全国人民代表大会(国会に相当)の解放軍代表団全体会議で「断固として国家主権、安全、領土を防衛せよ」と指示し、海洋権益確保の姿勢を強めていく。外交路線の転換が明確になったのは〇九年七月の第一一回駐外使節会議だ。世界から大使を集め五年に一回開かれる会議では、外交の基本路線が示される。胡主席は中国が「政治の影響力、経済の競争力、親しいイメージを広げる力、道義で感化する力」の「四つの力」を強めるよう呼びかけた。〇四年の同じ会議では「平和安定の国際環境、善隣友好の周辺環境、平等互恵の協力環境、友好善意の世論環境」の「四環境」を整備するよう呼びかけたのに比べ、挑戦的な姿勢を強めた。背景には金融危機で欧米や日本に比べ中国が国力を上昇させ、大国にふさわしい国際的地位を得るべきだという声が国内で高まったことがあった。

 この会議で胡主席はトウ小平氏が示した「韜光養晦、有所作為」(能力を隠して力を蓄え、少しばかりのことをする)という抑制的な外交方針を「堅持韜光養晦、積極有所作為」に修正した。能力を隠し、力を蓄えることを堅持するが、より積極的に外交を展開するという意味だ。この変化は、胡演説の全文が公表されなかったため気付く者が少なかった。新たな外交方針について中国外務省の高官は「国際問題により積極的な役割を果たすという意味だ」と解説する。

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