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TPPという農業自由化が起こす日本の政治革命

田中直毅(国際公共政策研究センター理事長)

米国が小国に乗り合わせる時代

 2008年9月のリーマン・ブラザーズ・ショック以降、米国経済の運営においてマクロ経済政策の有効性は消失した。これにより米国の経済政策は方針転換を迫られた。オバマ政権は、財政政策と金融政策の組み合わせ、つまりポリシーミックスは有効需要拡大に結びつかないとの認識から、輸出を橋頭堡とする雇用創造に切り替えた。5年間で輸出額を二倍にする政策である。輸出を通じた経済の拡大がなければ雇用問題の改善は難しいのだ。

 五年間で二倍を達成するためには、年率平均15%の伸び率が実現しなければならない。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加は、こうした一連の流れの中から生まれた。

 もともとTPPは、シンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリとう、アジア・太平洋地域の小国が目指した完全開放経済体制であった。経済成長や国民生活の充実を図るためには、自らの保持する経営資源の選択と集中が必要となるが、この四ヵ国は、いずれも自国だけでそれを行うには規模が小さすぎる。この規模の制約を乗り越えるために、経済自由化政策の最大限の活用を目指したのがこのTPPである。いうなれば、小国であるがゆえにグローバル経済の内容を自らに望ましいような制度設計を急ぐという発想がここにある。

 経済学の教科書では、貿易の問題を考える場合、大国と小国とに分ける。小国とは、与えられたままの価格体系に適応するのみで、小国が特定の政策を採ったからといって、国際社会に成立する価格体系には何の変化もない。しかし、この四ヵ国は、付加価値創造を深める点で際立った行動をとり、大国を巻き込んだことで、制度づくりの担い手となった。マクロ政策で行き詰まった米国が、この小国がつくり上げようとした試みに自らを投機させたのだ。

 事ここに至れば、日本も、これを戦略課題ととらえるべきである。もともと日本は、経済自由化に関して、世界貿易機関(WTO)という多角的な枠組みで十分とする考え方が強かった。しかし、WTOは参加諸国の利害調整に手間取るに至る。こうした閉塞を打破すべく、当該国が一対一で取り決める自由貿易協定(FTA)が浮上したが、日本は農業をはじめとする国内産業の開放に手間取り、他の主要輸出国に大きく後れをとった。

 これまで世界で結ばれたFTAの枠組みでは、対象品目のうち、90%を完全自由化したとしても、それぞれ10%程度は「関心項目」として、自由化枠組みの外側に置くことを相互に認めている。つまり100%の自由化ではなく保護の抜け道がある。これであれば、組める相手を見て締結が可能で、それが日本以外の国でFTAが進展した理由であった。

 しかし、TPPは小国が狙いを絞って主張した枠組みであるがゆえに、貿易品目の自由化実施100%を目指す。そして貿易のみならず、投資、知的所有権、政府調達、製品の標準化などについても、グローバル経済の基準を取り込もうとする。当然のことながら、金融や労働移動についても、グローバルに統一的な枠組みの構築を目指す。

 このためTPPは、FTAの枠組みをも超える高い水準での経済統合の仕組みとなる。日本がもしTPPに参加すれば、経済規模や競合分野、相互の市場の重要度からいって、米国との間の完全経済統合の達成という性格を帯びる。ここでは、電気通信も、情報も、金融も、知的所有権も、製品の標準化も含まれる。ここから付随的に中国に対する戦略という性格も帯びる。

 中国は、WTO加盟以降も違反とされる事例を多く抱えている。とりわけ知的所有権そして政府調達については、中国独自の政策に対して、米国といえども依然として対抗力を十分持ち合わせていない。これらの問題に関しては、個々の企業からは、中国政府の優越的な地位を背景とする圧力から、思い切った発言ができないという嘆きさえ聞かれる。米国政府でさえ中国に対しては手こずっている。特に製品の標準化については、巨大市場化するバイイングパワーを背景とした中国に対抗する要素を日本は持ち得ていない。ただし日米がTPPの枠組みをつくり上げるならば、中国に対する規模という面でも対抗要件が手にすることができる。

 いうまでもなく、これらの効果は日本の製造業にとって望ましい。だが日本にとっての意義はその程度にとどまらない。日本の選択として長期的な視点からとらえる必要がある。

 日本は高齢社会に突入した。高齢社会においては、生産年齢人口や家計の貯蓄などの国内余剰資金といった投入要素が減少することから、これまで以上に付加価値を増やす仕組みを経済の内部に備えねばならない。にもかかわらず日本は、以前の社会慣習や経済の仕組みをそのまま抱えて、生産性の大幅な改善に本格的に取り組むことはなく、結果として経済は長く停滞した。

 しかしTPPの登場を通じて、規制改革やグローバル基準に、どのように日本の内部の経済システムを合わせるのかという、付加価値創造そのものに関わるテーマに向き合うことになった。菅直人政権は、TPPに対して積極的な意思を示した。突然外からやってきた枠組みを、まさに「奇貨居くべし」と、戦略的路線選択の手段として位置付けようとしたといえる。

日本でまだ起きてない政治闘争

 明治初年以降の近代化において、キャッチアップの過程はおおむね成功という評価を国際的にも得ている。しかし、キャッチアップであるがゆえに、いかに早く先行する実践例に接近するのかというテーマだけが追求された。それゆえであろうがキャッチアップ達成後、経済面でのさらなる付加価値創造のための骨格づくりについては、残念ながら正面からの取り組みは行われなかった。

 なぜだろうか。世界史を顧みると、産業化がある段階まで進展すると、所得分配に関する矛盾が発生し停滞が起こる。そこから、より高い生産性を実現するセクターに追加的な資源配分をしなければ、次のステージに上がることは出来ないという命題が浮上する。所得分配の変更が優れて政治的な課題である以上、ここで行われなければならないのは、ある種の奪権である。

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