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TPPという農業自由化が起こす日本の政治革命

田中直毅(国際公共政策研究センター理事長)

韓国との競争に劣後した理由

 いうまでもなく日本経済の主軸である製造業は、その利益を競争市場から得る。その競争とは、売り上げの増加と総費用の抑制の追求である。製品や技術の開発およびマーケティングを通した新規の市場や顧客の開拓、費用最小化のための経営技術の革新などが付加価値創造の場となる。

 製造業が得た利益を、国内でどのように再配分するのかが自民党政治の要諦であった。もちろん、戦前に農村地域の疲弊が社会の不安定化につながり、軍国主義擡頭の背景となるという歴史の教訓があった。それゆえに、戦後は余剰価値を生産性が低い地域に還元し、政治的な安定を実現することが正当性を持ち得た。そして高度成長の基盤を固めたともいえる。

 ところが、20世紀の終盤以降、周辺で日本以外にもキャッチアップを遂げる国々が相次いで登場すると、こうした仕組みの前途に陰りが出た。本来ならば90年代以降、日本は付加価値創造の問題を正面から議論すべきであった。ところが、この点について十分な問題意識を持たなかった日本政治は、その後も満足な対応法を見出しかねた。いうまでもなく日本政治そのものが、価値を創造する枠組みに関与するというよりは、レントシーキングによって、余剰を食いつぶす仕組みとして存在し続けていたからである。

 今回、TPPが日本の産業界に意識されたきっかけは、輸出産業の競争相手として擡頭してきた韓国におけるFTA交渉を通じてのブレークスルーであった。

 韓国は、EUや米国との間においてFTAに踏み出した。早晩、韓国の自動車やエレクトロニクス製品が、日本で製造されEUや米国に持ち込まれる製品よりも、関税のうえで有利になることが誰の目にも明らかになった。

 韓国の場合、GDPに占める農業の比率は3%、これに対して日本は1%である。このことに鑑みれば、韓国がEUや米国との間でFTAを結ぶとき、当然のことながら農業の分野において、日本より激しい抵抗が相次ぐはずである。

 実際、最初に韓国で、韓米FTAが議論されたのは金泳三政権のときであったが、ソウルの町には、これに反対する農民が押し掛けた。たまたま私も、官庁街にピーマンを山積みにして、その前で農民が抗議行動を行う場面を見掛けたことがある。

 しかし韓国は、自国の国内市場規模を考えた場合、国内の保護だけを優先することは出来なかった。経済成長を維持するためには日本以上に海外市場を必要とした。

 さらに歴史的に見ても、中国との関係を重んずるべきという大陸国家論と、米国を中心とした西側との間で価値観や仕組みを共通にすべきだという海洋国家論との間にせめぎ合いが起こらざるを得ない地政学的な地位にある。その中で韓国は、自らを大陸国家と規定せず、海洋国家の仕組みを取り組むことで自国の付加価値をさらに高める選択を行ったのである。FTAはその象徴的な手段なのだ。

 1998年の経済危機以来のウォン安と相まった韓国製造業の攻勢により、日本の産業界が目覚めるという構図が近年、しだいに明らかとなる。その過程で、ついに日本のビジネスも付加価値創造の仕組みそのものに目を向けざるをえなくなったといえよう。

 韓国では「地代」を実質上消滅させるメカニズムをつくり上げつつある。ただし、ここで重要なのは、「地代」の消滅と、農業生産の消滅とはまったく別という点だ。「地代」が実質上消える過程では、農地を利用した農業生産ができないことではない。むしろ、農業用地の長期賃貸がそれまでより容易になり、農業生産にも弾みが付くことである。「地代」の示す課題は、付加価値創造にかかわらないところに所得の分配を行わない経済社会づくりを目差すことであって、農業生産による付加価値創造そのものにとってはプラスという事実を、韓国の事例は示すこととなろう。

 日本は、韓国との競争に劣後する危機の中でようやく、TPPの仕組みを通じて、「地代」を大幅に引き下げ、その消滅過程を演出することの重要性に気づいた。逆にいえば、事ここに至るまで、付加価値創造が日本経済にとっていかに重要なのかについて、十分な関心が払われてこなかったとさえいえる。

TPPによる政界再編の図式

 日本の政党政治が、国の本質的課題に対して正面から向き合っていないことについては、既に幾多の指摘がある。現在の二大政党が、新しい時代を切り開く政策体系を持ち得ていないのでは、という議論までなされている。いかに二大政党がキャッチオール政党になりやすいとはいえ、両党ともに主要政策について党内の相反する立場を整理できていないのだ。

 たとえば、菅直人首相が「TPPを推進する」と臨時国会で所信表明をすると、政権与党であるはずの民主党の内部には、TPPに反対する議員が集まった。

 他方、野党の自民党でも、TPP対応を考える会合が開かれた際、二つの相異なる意見が登場した。すなわち「TPP対応とは何事だ、問題が多すぎるので、TPP問題懇談会という性格にすべきだ」という伝統的なレントシーカーを代弁する意見だ。他方では「TPP対応では生ぬるい。TPP促進議員会合にすべきだ」という意見も登場した。ここでは、高齢社会に入った日本において、付加価値創造の重要性、そしてそのための政策インフラについて、間違いなく新たな争点が登場し始めたのである。

 政党政治の不安定な状況を克服するためのさまざまな努力が、現在、行われているが、特定の政治家への近さや反発、または数合わせだけの理屈で離合集散を考えるよりは、21世紀の日本を見通すうえで影響を与える政策を梃子に動く方がより本質的な政治行動といえる。この点、TPPを分岐点とする政界再編の図式が浮上することの方が、われわれにとってよほど展望が開けるであろう。

 さらに注目しなければならないのは、TPPは、日米の二国間関係について、より明確な踏み込みになることである。また日本が、拡大する中国市場において付加価値創造のメカニズムをつくり上げるためにも、TPPを背景とした交渉は重い意味を持つ。このことは、中国に、近代化や民主化、そして国際経済システムへの同化を促すうえでも、重要な手段となるのである。

 このようにTPPは、日本にとって、自らの政治、経済、社会のシステムを持続的なものにするだけでなく、グローバル経済の再編にも積極的な役割を果たす可能性をも、もたらすのである。


(了)

〔『中央公論』2011年2月号より〕

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