田中、中曽根、竹下の力の源泉を読み解く

後藤謙次(ジャーナリスト)

 八三年十月に田中がロッキード裁判で懲役四年の実刑判決を受けると、中曽根は田中に議員辞職を迫った。これを契機に両者の力関係は逆転し、八五年二月、田中派内のクーデターともいえる竹下による「創政会」旗揚げで、名実ともに中曽根時代が到来する。

田中と竹下は官僚を重視した

 中曽根が頼りとした田中は、中曽根とは真逆の文字通りの徒手空拳、岩に爪を立てるように艱難辛苦を乗り越えて一代で築きあげた人脈を足場に頂点を目指した。田中が雪深い越後からたった一人で上京したのはわずか十五歳。田中が権力の階段を上るための?通行手形?が圧倒的な資金力にあったことは否定できないが、それだけで権力を手にするのは不可能だった。田中は若手議員の頃、多くの議員立法を手掛けた。道路特定財源の創設など田中の手による議員立法は合計三三案件にのぼった。田中の大胆な発想と行動力は、霞が関の若手官僚を引き付けてやまず、学歴もなく閨閥もない田中が霞が関に巨大な人脈を築く大きな足掛かりとなった。

 そんな田中はエリート街道を歩んだ中曽根を甘く見ていたところがあった。これに対して竹下やその後ろ楯の金丸信には警戒の目を光らせていた。同じ道を歩んできた竹下がひたひたと自らの地位を脅かしつつあるのを察知していたのだろう。竹下が創政会を結成した直後の田中演説は悲痛な叫び声に近かった。

「創業ということがいかに難しいことかはだれでも知っている。人が作った会社を継承して業績を上げることは難しいことではない。初めて仕事を興す時は実績がないのでカネも貸してくれない。創業者に敬意を払い、敬慕の情を持つのは当たり前だ」

 ロッキード裁判という裁判闘争と、永田町の権力闘争の二正面作戦を強いられた田中は徐々に精神的に追い詰められていく。この演説から約二週間後、田中は脳梗塞で倒れ政治生命を失った。竹下はこの二年後、田中派のほぼ大多数を継承して経世会(竹下派)を結成し、そのまま首相に就任した。

 竹下も中曽根とは違い内務省のような大きな組織の後ろ楯があったわけではない。島根県議から国政に駒を進め、さらに当選を重ねるにつれて人脈を形成していく。その点では田中と相通じる部分が多々あった。選挙事情に精通し、選挙によって政界での影響力を増大させる。そのための資金確保や人材発掘などに意を用いた点でも田中と同じだった。違うところがあるとすれば、田中が猛烈なパワーで爆走してロッキード事件に遭遇したため、極めて慎重に事を進めたところぐらいかもしれない。官僚出身の中曽根が民間人に比重を置いた人脈づくりだったのに対して、田中も竹下も官僚機構に人材を求めた。両者とも各省庁の幹部の氏名と入省年次を諳んじていたことはそれを象徴する。田中と竹下はともに蔵相ポストを長く経験した。そのことの反映なのだろう。大蔵省の組織と人材を政治権力の行使にフル活用した。

 ただし利用するだけではなかった。大蔵省の意向に沿う結果も出し続けた。とりわけ竹下は首相に就任すると大蔵省が悲願とした消費税導入を実現、加えて中曽根内閣の蔵相として円・ドル調整のためのプラザ合意を成立させるなど、極めて日本的な「根回し」「気配り」という独特の手法で国際通貨外交にも実績を残した。

人脈の罠

 だが、そこに双方がもたれ合う構図が生まれる。竹下は「日本の世話役」を自任し、官僚OBの再就職など、「そこまでやるのか」というほど、面倒を見続けた。それが結果として五五年体制の象徴と言える「政官業」の鉄のトライアングルを一層強固なものにした。例えば、竹下の首相在任中に存在した囲む会の数は十指に余る。「竹萌会」「竹下会」「木鶏会」......。こうした会合を通じて知己を得た企業に竹下が世話をした官僚は枚挙にいとまがない。それは政治家も同じだった。竹下人脈は野党にも及んだ。竹下蔵相時代の衆院大蔵委員会に属した旧社会党副委員長武藤山治、堀昌雄らは、消費税導入に向けた陰のエンジン役となり「大蔵族」と呼ばれた。こうした野党への目配りが旧社会党委員長村山富市を首相に担いで自民党が政権復帰を果たす自社さ三党連立政権の土壌となっている。懇意にしていた創価学会元会長の秋谷栄之助との関係はその後の自公連立政権樹立の環境醸成の役割を果たした。

 盟友だった金丸信が「出雲の神様は平和主義者」と揶揄したように竹下は「怨念政治にさようなら」が口癖だった。角福怨念、あるいは中曽根と鈴木の確執などを目の当たりにした竹下は政権を担うと「総主流派体制」を標榜して自民党内のすべての派閥から人材を公平に登用するなど党内抗争を封印した。政権の座を目指し営々と築いた人脈、敵を作らない用意周到な政治手法を駆使して誕生した竹下内閣は、だれもが長期政権になると踏んでいた。しかし、結果は在任期間はわずかに五七六日。リクルート問題に足下を直撃されたからだった。

 総主流派体制が逆に政権から柔軟さを奪い、それまで自民党の権力維持システムとも言えた"擬似政権交代"機能が失われ、あっけなく政権は終わりを迎えた。それどころか政官を巻き込んだリクルート問題によって「政官業」トライアングルの病巣の深さを白日にさらした。田中は刑事被告人として生涯を終え、中曽根も竹下もスキャンダルをめぐって国会に証人喚問されている。「人脈の罠」にはまったと言ってもいいかもしれない。

 やがてリクルート問題は政治改革をめぐる権力闘争に火を付け、竹下、小沢の「兄弟戦争」に拡大。自民分裂、野党転落、そして今日の政権交代につながっていく。竹下退陣から四年後の九三年衆院選で自民党一党支配は終焉する。主導者は小沢一郎。そして政権交代を可能にしたのが一躍時代の寵児となった日本新党代表の細川護煕だった。

たまたま縁を結ぶ野田

 この選挙で日本新党は細川を含む三五人が当選。細川はそのまま七党一会派による細川連立政権の頂点に立った。この三五人の中に野田佳彦がいた。当選同期の前原誠司、海江田万里は八月の民主党代表選で野田と代表の座を争った。さらに藤村修、枝野幸男、樽床伸二、長浜博行らが現野田政権の中枢を支える。とりわけ首相官邸は野田│藤村│長浜と日本新党出身者が一直線のラインを形成している。この三五人の中には自民党に移った政調会長茂木敏充、前総務会長小池百合子もいた。

 九三年初当選組の特徴はそれだけではない。自民党では元首相安倍晋三、現国対委員長岸田文雄、元郵政相野田聖子、公明党の前代表太田昭宏、共産党の委員長志位和夫らがいる。この九三年組は中選挙区制の衆院選最後の経験者で最初の現行選挙制度の経験者でもあった。いわば今の政界は「九三年体制」と表現してもいいかもしれない。

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