田中、中曽根、竹下の力の源泉を読み解く
ところで日本新党の初当選組三五人の中に松下政経塾出身者が七人いた。野田もその一人で、しかも政経塾の第一期生。そもそも細川と野田がどのように結ばれたのか。そのきっかけを作ったのが元共同通信論説委員長で法政大学教授だった内田健三である。内田家は代々熊本藩細川家の藩医を務め、祖父は明治、大正、昭和の三代にわたって外相を務めた内田康哉である。内田健三は松下政経塾の常務理事を務め、内田を介して細川と政経塾が結びつく。そこで細川と野田も顔を合わせることになる。細川が九二年に日本新党を結党すると細川の門を叩く塾生が多かったのもこうした人間関係が介在したからだ。
しかし、最初から日本新党に立候補希望者が殺到したわけではない。細川の元秘書によると、まず白洲次郎・正子の孫の白洲信哉、長浜博行、中田宏(前横浜市長)らが東京・乃木坂にあった党本部に集まり、次いで野田が加わった。野田は既に千葉県議の二期目に入っており、ただ一人胸に議員バッジをつけていたという。
日本新党がその年の参院選で議席を得て、世間の注目を浴び、政党支持率が上昇し始めると続々と人材が集まるようになる。その中に前原、また公募で候補者になった枝野がいた。当選当時の野田の印象について元日本新党職員は「一年生議員の中では一番目立たなかった」と証言する。その寡黙で生真面目な野田の態度に細川は好感を持ったという。
だが、細川政権はわずか八ヵ月で崩壊した。政界ではよくあることだが、日本新党からの離脱者が相次ぐ。前原、枝野、小沢鋭仁、荒井聰らは武村正義が率いた新党さきがけ入りして、自社さ政権では与党入り。野田は細川に従い小沢一郎が主導した新進党結党に参加する。しかし、野田は九六年の現行制度最初の衆院選で、わずか一〇五票差で苦杯をなめる。新進党党首の小沢は、小選挙区と比例代表との重複立候補を認めないことを原則としたからだ。重複立候補が認められていれば野田は間違いなく当選していた。この衆院選で自民党に敗退した新進党は分裂含みとなり、九七年の党首選を迎える。ここで党首小沢に挑んだのが鹿野道彦。野田側近によると、落選中の野田が鹿野の決起集会に顔を出して応援演説をしたという。
「あの演説が今年の民主党代表選の決選投票で鹿野さんのグループが野田に投票してくれた大きな要因ではないか」(野田側近)
そんな野田は政界を引退した細川とも連絡を取り続けた。野田側近によると、野田が代表選の出馬の意向を固めた七月下旬、細川から電話が入った。
「京都で座禅をしよう」
財務相としての過密スケジュールを何とかやりくりして日帰りの日程を組み新幹線で京都に向かい、野田は細川と建仁寺の山門をくぐった。その往来の会話で細川から「小沢さんと会っておいた方がいい」と助言を受け、それが代表選直前の野田・小沢会談となった。
こうしてみると、野田の人間関係は中曽根、竹下らに象徴されるかつての自民党の首相たちとは明らかに違う。「その日」を念頭に積極的に人脈作りに励むというスタイルからは最も遠い位置にあるようにみえる。たまたま縁を結んだ人物と長く濃密な関係を愚直に継続する姿が浮かび上がる。野田側近の行政刷新担当相蓮舫が「野田さんのすべてを尊敬する」と話すように、野田の誠実な態度は身近な人間にとってこの上ない存在に映るようだ。
しかし、それでは政治家としての人脈やネットワークは広がらない。野田がポスト鳩山の代表選で出馬の動きを見せた時、側近グループがストップを掛けた。「人脈とネットワークがあまりに足らない」(民主党幹部)というのがその理由だった。
財務省頼みの危険
それからわずか一年余で野田はなぜ変われたのか。野田の弱点を補強できるのは事務次官勝栄二郎を筆頭にした財務省としか考えられなかった。前述したように野田は八月三十日に国会で首相指名を受けると、組閣に先立って日本経団連の会長米倉弘昌と会談した。菅直人政権時代には「冷戦状態」だった日本経団連との関係は一転して「蜜月状態」を思わせるほどに激変した。ここにも勝を介した財務省人脈が見え隠れする。前総務相片山善博による「直勝内閣」は言い得て妙である。
野田は財務省をステップに政治家として大きく飛躍し、代表選に際しては「怨念政治」を否定した。こうした点だけを捉えるなら竹下登と相似形とも言えるかもしれないが、「人脈やネットワーク」の厚みでは比較の対象にもならない。野田の親しい経済人は同じ千葉県の誼でキッコーマンの名誉会長茂木友三郎ぐらいしか思い浮かばない。学者、メディア界にも野田を支えるブレーン的な存在は見当たらない。野田人脈と言えるものは「松下政経塾│細川護煕」のラインと財務省以外に太い幹が見えてこない。たしかに予算を基本に動く日本の政治システムの中では、予算を握る財務省は圧倒的な影響力を持つ。「財務省頼り」に徹すれば、一定の結果は出せるだろう。しかし、それでは政治家は必要ない。むしろ強力な組織は得てして政治のブレーキ役となり、逆に国民が望む政策推進の障害になることも歴史が教える。これといった人脈を持たずに首相となった小泉純一郎が長期政権になりえた大きな要因に、個性の強い竹中平蔵を迎え政権の方針を明確にしたことがある。国家を運営する政権中枢が政治家不在の真空地帯でいいはずがない。とりわけ外交経験の少ない野田にとってブレーンづくりは急務と言っていいだろう。
中曽根はしばしば「人探し」という言葉を使う。
「この問題はだれを使い、どうすれば解決できるのか、だれに聞けば問題の核心が分かるのか」
現に中曽根は自ら築いた豊富な人脈があったにもかかわらず、首相に就任すると大平正芳の「田園都市構想」に参画した佐藤誠三郎、公文俊平、香山健一をブレーンとして招聘した。
野田は自らの政権がやるべきことは決まっていると繰り返す。東日本大震災からの復旧・復興、社会保障と税の一体改革、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉入り。だれもそのことを否定しない。だが、最大の問題は野田がそこから先の日本をどのような国家にするかについて明確に語っていないことだ。「人脈なき政権」の限界なのだろう。このままでは何も決まらない、決められない政治がさらに続くことになりかねない。野田の師である細川護煕は政治改革関連法が成立した翌日、九四年一月三十日の日記にこう記す。
「私の使命は既にほぼ達成せり。政権はただ長きを以て貴しとせず」(『内訟録』)(文中敬称略)
(了)
〔『中央公論』2012年1月号より〕