チルドレンが蔓延り政党は溶解する

時評2012
野中尚人

 小沢グループの離党後も、民主党の混乱には収まる気配が見えない。衆議院で反対票を投じた議員だけでなく、参議院議員からも離党者が続き、ボロボロとまるで櫛の歯が欠けるような有り様である。率直に言って、鳩山元首相の「無思慮な」言動も理解しがたい。

 あと一五人程度が民主党から造反し、内閣不信任案が可決される事態は起こるのか、その場合解散総選挙はあるのか、大連立が組まれる可能性はあるのか。まさに視界ゼロメートルといった感である。

 大きな転換期にある日本政治の状況は、極めて複雑であり深刻である。しかし明らかに、一つの大問題は政党のあり方である。

 現代の民主主義政治には、政党は不可欠である。選挙でマニフェストと候補者を準備するのも、内閣を組織して政府を運営するのも、基本的に政党が主役である。同時に、政府と国会、そして選挙区をいわば横串でつないで、統治システム全体への説明責任を担うのも政党である。

 ここで必ず問題となるのが、政治家個人なのか、集合体としての政党なのかという点である。すなわち党議拘束に従うのか、自分自身や選挙区の支持者の意見を優先するのか、という問題である。むろん、自動的に決まっている訳ではない。

 しかし敢えて言うならば、政府としての重大な決定については、たとえ地元に反対されても党議に従うことが基本である。つまり政党政治とは、党議決定やマニフェストの質を高めることを通じて、個々の政治家が個別の利益をばらばらに追求する行動をできる限り抑止することを重要な軸としているのである。少なくとも議院内閣制では、内閣提出法案が与党内からの造反のために成立しないということでは、政権運営は全く不可能だからである。ヨーロッパの主要国では、こうした政党規律が相当に発達している。

 しかし、ややこしいことに、政党には全く違うもう一つの顔がある。それは、選挙で当選し、ポストを獲得し、昇進して行きたいと考える政治家たちのための互助組織という性格である。政党がなぜ組織され、合併し、逆にどうして分裂したり解体したりするのかは、綺麗ごとでは分からない。つまりは、先に述べたような政治家にとっての必要物を政党が提供できるかどうかに左右されるのである。

 勢いの落ちてきた民主党からはボロボロと離脱者が続き、逆に橋下市長が主宰する大阪維新の会には志願者が殺到するのは、この点で極めて分かり易い。しかし、これをそのまま黙認するとどうなるのだろうか。無党派の国民がその時々の風を生み、チルドレン風の国会議員が大量に生まれてはあっという間に雲散霧消する......。言葉は悪いが、その場限りのお祭り集団が生まれては、しばらくすると個々の議員が勝手な自己主張を繰り返してばらばらになる。自民党時代の「個人商店」のような議員とは全く違うが、この「チルドレン政治家」も実に困った存在となっている。これでは、政治が前に進むはずもない。

 では、これをいかに回避するか。政党が自分たち自身の理念や政策を練り上げ、それに賛同する人々を組織化し、その中から選挙への候補者を選んで行く。つまり、組織化と長期的なコミットメントを通じて政権を担う準備を行い、その作業の中からトップ・リーダーを選抜し、国会議員たちを訓練して行くのである。責任政党は、こうして築かれた党内ガバナンスの構造によって政党規律を確保しなければならない。

 別の言い方をすれば、政権を運営するための人材と政策のパッケージ化である。責任政党は、国民に対して有効で信頼性のある選択肢を提供するのであり、それは集団としての責任体制なのである。

 結局離党した小沢グループも、当面は党内に残った鳩山氏らも、明らかな少数派でありながら、党内の多数派を半ば脅すような行動をとってきている。衆議院での過半数をめぐって、いわば「梃子の力」を悪用しているのである。しかし、原発やTPP、基地問題などについて、与党内の反対者が「自由に」反対投票を行えば、政府としての政策決定は完全麻痺することは間違いない。

 結局のところ、政党が規律を持つことは、党内民主主義との関係から見ても重要であるが難しい。しかし、いずれにしても、合意とリーダーシップに基づく責任政党としてのパッケージ化によって、はじめて政党政治が可能になり、政治を動かすことができるのである。
(了)

〔『中央公論』20129月号より〕

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