この機会に学んでおきたい、細菌を"食べる"ファージとは?【新刊この一冊】
評者:仲野 徹(隠居、大阪大学名誉教授)
『善良なウイルス』、いささか意表を突いたタイトルである。もちろん、ウイルスは善良とか邪悪とかいう意図を持っている訳ではない。しかし、多くの人にとってウイルスといえば感染症、害悪をなすものといった印象だろう。だが、意外なことに人間の役に立つウイルスがある、というのがこの本の主題だ。その名はバクテリオファージ、略してファージである。
あまり聞き慣れない言葉かもしれない。細菌を意味する「バクテリア bacterium」と、食べるを意味するギリシャ語「ファゲイン phagein」から作られた合成語である。サイズ的にはファージの方が細菌よりずっと小さいので、実際に細菌を食べる訳ではない。細菌に感染して溶かす、すなわち溶菌させる能力を持ったウイルスだ。
地球上に存在するファージ全体の威力はすさまじい。およそ1秒あたり1000垓(がい)(10の23乗)個もの細菌を破裂させ、毎日、自然界に存在する細菌の20〜40%を死滅させているという。その一部を利用して細菌感染症の治療に役立てようという戦略がある。
ファージによる感染症治療の歴史は20世紀初頭にまで遡ることができ、抗生物質よりも古い。にもかかわらず、ファージ療法など聞いたことがないという人がほとんどだろう。最初はかなり期待が持たれたのだが、ペニシリンの発見を嚆矢(こうし)に西側諸国では抗生物質の開発が盛んに行われ、細菌感染症に対する治療の主流となっていった。
一方、ソ連はそのような流れに取り残され、ファージによる治療法が続けられていた。というより、続けざるをえなかった。なので、いまではジョージアがファージによる治療法の中心地になっており、液体や軟膏の「薬剤」として売られている。このような経緯なので、ファージの利用はあくまでも限定的で、大きな興味や期待は抱かれてはいなかった。だが、いま、脚光を取り戻しつつある。その理由は、抗生物質に対する耐性菌の存在だ。
細菌には変異が生じやすく、抗生物質に対する耐性を獲得しやすい。しかし、利潤を得にくいこともあり、新しい抗生物質の開発は滞りがちで、このままだと2050年までに年間1000万人もが耐性菌による感染症で死亡するという推計まである。そういった難治性の細菌感染症を治療するための切り札としてファージ療法が再認識され始めており、そのエキサイティングな現状がわかりやすく紹介されていく。
旧ソ連だけでなく欧米でも研究が進められていて、希望を持てる成果が出つつある。かといって楽観できる訳でもない。ファージは特定の細菌しか殺せないという特異性が高い。生物学的な方法でしか製造できないので、品質管理が難しい─などの問題があるためだ。それに、これまでにランダム化試験といったエビデンスレベルの高い治験で効果が認められた例はない。しかし、将来に備えて研究する価値は十分にある。いや、しておくべきだ。
本書は、ファージの発見から、治療応用の歴史、さらにはその現状まで、あますところなく教えてくれる。それだけでなく、分子生物学の黎明期にファージがいかに活躍したかも含め、ファージのすべてがわかるといっても過言ではない。これから大活躍する可能性を秘めたるファージ、この機会に学んでおいて絶対に損はない。
(『中央公論』2026年3月号より)
◆トム・アイルランド〔Tom Ireland〕
サイエンス・ジャーナリスト、『ザ・バイオロジスト』誌の編集者。カーディフ大学で生物学の学位を取得後、ロンドンのプレス・メディア・トレーニングでジャーナリズムの修士課程を履修。2021年ジャイルズ・セントオービン・ノンフィクション賞を受賞。
【評者】
◆仲野 徹〔なかのとおる〕
1957年大阪・千林生まれ。大阪大学医学部卒業。内科医として勤務の後、ドイツ留学、京都大学医学部講師、大阪大学微生物病研究所教授を経て、2004年から大阪大学大学院医学系研究科教授。22年に定年退職。著書多数。





