アベノミクスはケインズ的な経済政策だった? 『一般理論』から読み解く日本経済

万能ではない市場と向き合うために
山形浩生(コンサルタント・翻訳家)
山形浩生氏
 ケインズは著書『一般理論』を通してマクロ経済学を生んだことで知られる。しかし一時期、彼の経済学はもう古びたものとして扱われるようになっていた。背景にある理論の変遷や、ケインズの経済学から見た日本経済について、『一般理論』の翻訳者であるコンサルタントの山形浩生氏に聞いた。(『中央公論』2021年8月号より抜粋)

忘れられていたケインズ

─山形さんはこれまでケインズの翻訳を何度も手がけています。そもそも『雇用、利子、お金の一般理論』(以下、『一般理論』)を翻訳しようと考えた理由は?

 経済学者のポール・クルーグマンが一九九五年に出た『一般理論』再版に寄せた序文で、「なんだかんだ言って、いまやみんなケインジアンなのだ」、要するにケインズが全部正しかったと書いているんです。今オレはすごいことを言ってしまった、という調子で。

 もちろんケインズの名は知っていましたが、私がマサチューセッツ工科大学に留学していた一九九三年頃でもすでに過去の人扱いで、留学生が「経済学の講義でケインズを読めと言われたんですけど、今どき読む奴なんていませんよね」とこぼしていたのを覚えています。ただ、クルーグマンの言っていることはすごく納得できるものだったので、メモを取りながら原書の『一般理論』を読み始めて、そのメモで『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』の基礎ができてしまったんです。

 ところが、翻訳の参考にしようと既訳の『一般理論』を読んでみると、どうも違和感が拭えない。訳者の解説には「原文が間違えているから修正した」などと書かれていて、仰天しました。六〇年以上も読まれてきた古典に、そんなデカいヤマが残っているはずもないからです。そこで私も意地になって、ついに全訳(『雇用、利子、お金の一般理論』)までやってしまったという経緯です。

─日本では、マルクス主義とケインズ主義は対置されはするものの、インテリの必読書となっていたのは『資本論』で、ケインズの著作を実際に読んだ人はあまり多くなかったと思います。マルクス信奉者を探すのが難しそうな米国でも、ケインズが過去の遺物扱いだったというのは意外です。

 たとえば、合理的期待仮説を唱えたロバート・ルーカスが、一九七九年にシカゴ大学の講義で「ケインズ経済学は死んだ」「学会でケインジアン的な議論をしたら嘲笑される」と言ったことは有名です。

 自由市場の優位性を説いたシカゴ学派が大きな影響力をもった七〇年代から八〇年代には、ケインズ的なマクロ経済政策や政府による市場介入は、スタグフレーション(インフレーションと景気後退が同時に起こること)の原因にしかならない、と一笑に付されておしまいだったのでしょう。

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