アベノミクスはケインズ的な経済政策だった? 『一般理論』から読み解く日本経済

万能ではない市場と向き合うために
山形浩生(コンサルタント・翻訳家)

市場は万能ではない

─いったん古びたケインズの理論が、近年になって再評価された背景には何があったのでしょうか。

 ケインズの理論が古びた原因には、現実と理論の二つの側面があります。

『一般理論』が刊行された一九三六年は、二九年に起こった世界恐慌からの回復の途上にありました。三三年に始まったルーズベルト大統領によるニューディール政策にも、『一般理論』の議論は追加的に取り入れられました。ただ、ニューディール政策の大規模公共投資だけでは完全な景気回復には至りませんでした。

 その後に第二次世界大戦が起こりニューディール以上に莫大な「公共」投資が必要となり、それを支えるための金融緩和が行われました。これにより、ケインズの理論通りに失業者のいない「完全雇用」の状態が実現しています。

 大戦後は、ケインズも構築に一役買ったブレトン=ウッズ体制が国際経済の基盤となり、各国政府はケインズ理論に基づく公共事業と金利引き下げで完全雇用を実現しました。ケインズ理論は一九六〇年代まで、世界経済に安定と繁栄をもたらしたのです。しかし、その後インフレが加速し、各国の財政赤字も膨らみます。世界経済の拡大もあり、ドルを基軸としたブレトン=ウッズ体制は崩壊します。

 七〇年代にはオイルショックで世界が不景気に陥りますが、今度は公共事業を行ってもインフレが加速するだけで、失業は解決しませんでした。ケインズ理論が現実を改善できなくなったことが、時代遅れとみなされた原因といえます。

 同時に、ケインズ理論の画期的な点は、「失業があるほうが一般的」としたことでした。それ以前の古典派経済学では完全雇用が平常で、「失業が発生するのは労働者が賃金引き下げに同意しないからだ」と考えられていました。労働市場も需要と供給で均衡するというわけですが、世界恐慌時は「何でもいいから仕事をくれ」とプラカードを首から下げた失業者が街にあふれており、古典派経済学では説明がつかなかったのです。

 それに対しケインズは『一般理論』で、「中央銀行がお金を供給し、金利が下がれば投資が増え、労働需要も増えて失業が解消する」という経路を示しました。労働市場が需給で均衡しないのが「一般的」で、「お金」で「利子」を調整することにより、ようやく均衡に近づく。だから『雇用、利子、お金の一般理論』というタイトルなのです。

 ところが、六〇年代には「労働を含むあらゆる財の市場が完全に均衡する」とした、ケネス・アローの一般均衡理論が完成します。不均衡を前提にしたケインズのアプローチは不要で、一般均衡とのずれを分析するだけでいいという考え方が優位に立ちます。

 さらに七〇年代の合理的期待仮説や、株式市場の全能性を想定した効率的市場仮説により、政府は自由市場の均衡を阻害する非効率なセクターとみなされるようになり、ケインズ流の公共投資や政府介入はひどく時代遅れのものとして退けられるようになりました。

「今どきケインズなんて」という留学生の嘆きの背景には、このような経済理論の変遷があったのです。

─そんな市場への妄信が二〇〇八年の世界金融危機を引き起こして、潮流が逆転したということですね。

 その通りです。各国とも金融緩和と財政出動で危機に対応せざるをえませんでした。ただしゼロ金利状態が長く続いた日本では金利をさらに下げることができないので、大規模かつ継続的な金融緩和をアナウンスし、人々の「今後もゼロ金利は継続するから、貯蓄よりも投資や消費が有利だ」という予想=期待に働きかける経済政策が採られました。つまりアベノミクスは、きわめてケインズ的な経済政策だったのです。

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