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「平民宰相」原敬と菅義偉に求められたもの―大正と令和、その政策と世論―

清水唯一朗(慶應義塾大学総合政策学部教授)

求められた「平民」イメージ

 さっそく、「原敬は平民ではなく士族だ」という声が聞こえてきそうだ。原は黒船の来航から3年後の1856年、南部盛岡藩20万石の家老格の家に生まれた。次男ではあるがまぎれもない士族、上士である。家庭は裕福であり、幼少期から十分な教育を受けた。

 恵まれた境遇が一変したのは、戊辰戦争で南部藩が賊軍とされ、戦いに敗れてからだ。生家は主家のために家財や土地を処分し、母が自ら菓子を売って糊口をしのいだ。苦境のなかでも母は原に学問の機会を与えた。

 苦学するなかで、原は分家して自ら平民となることを選んだ。そこには、過去に縛られず、一人の人間として生きていくという決意があった。

 新聞記者を経て外交官となり、伊藤博文による立憲政友会の創設に参画する。伊藤系官僚が次々と同党を離れるなかでも粘り強く党を支え、1918年にはついに首相の座に就いた。

 この過程で、原が自ら平民であることを強調したことはない。それはむしろ国民の側からの声だった。原が将来の首相候補として頭角を現してくると、彼の人生は、誰でも自己実現ができる社会をめざす、明治維新本来の精神を体現するものとして称揚されたのだ。

 藩閥との妥協を重ねて勢力を付けてきた原への批判は和らぎ、原内閣が「平民の、平民による、平民のための政治」をもたらすのではないかという期待が膨らんだ。それは国民が求めた指導者像であった。

 原自身、「いかなる政策を実行するにせよ、常に民意の存するところを考察すべし」とその決意を表明して、国民の支持を背景に政権に臨んだ。

 菅は戦後まもない1948年に秋田県秋ノ宮村(現・湯沢市)に生まれた。父は南満洲鉄道の職員として終戦を迎え、復員後、イチゴ栽培で成功を収める。菅が高校生のころ町議会議員となり、副議長まで務めた。

 中学の同級生のうち半数は東京に集団就職し、高校に進学した者は4分の1。大学進学率は13%という時代に、菅家は3人の子どもを大学に進学させた。裕福で教育に理解のある家庭で育ったといってよいだろう。

 原の苦労が戊辰戦争という状況に規定されたのに対して、菅は違う世界を見てみたいと自ら東京に飛び出した。18歳。原が平民となることを決めたのとほぼ同年である。2人の「平民」人生はここで重なる。

 些細なもめごとから学校を放逐された原は新聞記者として食いつないで道を拓き、菅はアルバイトで生計を立てて大学を卒業し、苦境のなかから政治に活路を見出した。原はノンキャリアの官僚として、菅は衆議院議員の秘書として歩み始める。

 こうした菅の「平民」イメージが広く流布されたのは2020年の自民党総裁選挙である。対抗馬の岸田文雄、石破茂はいずれも世襲議員であり、叩き上げ、苦労人という顔は戦略上、有利に働く。また、世襲議員の代表格である安倍首相のもとで、その長期政権を支えた番頭という印象を和らげるにも役に立つ。菅は討論会などでも自らのこのイメージを押し出し、活用した。

 かくして菅は総裁に当選し、首相の座に就いた。首相就任会見では、自ら「国民のために働く内閣」と、平民宰相としての自負を前面に打ち出して出発した。

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