大山顕 ゼレンスキー大統領のオンライン演説に見る、外交手腕の2つのポイントとは。画面越しでも「自分に向けられている」と思わせる大切さ
興味を引かれた2つのポイント
「注目したいのはその内容ではない」と言いつつ内容について語ってしまった。ぼくが今回もっとも興味を引かれたのは2点。演説が遠く離れた場所からオンラインで行われたことと、十数分間の演説の間ずっと、ゼレンスキー大統領がカメラ目線だったことだ。
まず前者だが、国会という場において他国の元首がオンラインで政治的なメッセージを届けるという前例は、これまでになかった。いやいや、コロナ禍以降は外交の世界でもオンライン会議が頻繁に行われているぞ、という指摘があるだろう。
ポイントはまさにそこで、ぼくらがここ2年あまりで急速に遠隔地同士でのミーティングに慣れたという背景がなければ、今回の演説の体裁に対してもっと違和感を覚えたのでは、と思うのだ。この点で、今回の演説は、コロナ以降の戦争の姿をよくあらわしている。
もちろん侵略された国の元首が、戦火のさなかに一時的にでも自国を離れるのは大ごとであり、演説がオンラインであったことに異を唱えるつもりは毛頭ない。ぼくがここで言いたいのは、歴史的に見ると、この手の外交では、発言内容と同じぐらい、要人が現地にわざわざ足を運ぶ、ということが重要だったのではないか、ということだ。
つまりこのレベルの外交は「儀式」だったはずだ。それがオンラインで済まされるということは「何を語ったか」だけが重要だという認識に変わったということだろう。言うなれば外交が「儀式」から「コンテンツ」になったのだ。だからこそ演説する側も周到に内容を練り、聴衆側も今までになく発言に注目した。コロナ禍以前までの「外交」の体裁だったら、これほど多くの人びとが、同時通訳のクオリティを云々するほど内容を重視することはなかっただろう。
これは、職場に出勤せず在宅で仕事をするようになって発生した、上司や同僚との、あるいは取引先とのコミュニケーションの問題に似ている。多くの企業で、雁首揃えての会議が過度に「儀式」化してしまっていたことは、ずっと以前から指摘されていた。よく言われる「会議のための会議」「何も決定されない無駄な会議」というやつだ。
しかしそれでも、同じ場に居合わせるという「儀式」がなくなって、業務上のやりとりがすべて「コンテンツ」だけになるとうまく回らなくなる。目下ぼくらが直面しているオンラインミーティングの問題である。それを打開するものとしてVRミーティングが期待されているわけだが、あれが解決策だとは思えない。人類はまだオンラインにおける適切な「儀式」を習得していない。
とはいえ、今回の演説にも「儀式」性が存在した。それは議員たちが一堂に会して演説を視聴した点だ。「コンテンツ」としての演説内容を確認するだけだったら、彼らはそれぞれの家や事務所で見れば済む。あのような場が設けられたのは、国会の議場という場所で上映されることに「公式」感があるからだ。あたかもそこにゼレンスキー大統領がいるかのようにセッティングされた議場と議員たちの出席は、演説が公式のものであり重要な外交であることを保証する体裁である。
メッセージが公式のものであるかどうかを内容だけで判断するのは難しい。それを決定するのは「コンテンツ」の周囲にある「儀式」のほうだ。オンラインで配信される映像自体には「コンテンツ」しかない。だからそれを視聴する場のほうに「儀式」が求められるわけだ。