大山顕 ゼレンスキー大統領のオンライン演説に見る、外交手腕の2つのポイントとは。画面越しでも「自分に向けられている」と思わせる大切さ

斜めのミラー
大山顕(写真家・ライター)

ゼレンスキー大統領のカメラ目線

もうひとつ重要な「儀式」性は、あの映像がリアルタイムだったことだ。考えてみれば、あらかじめ録画した演説を再生するだけでもなんら問題なかった。対話が行われたわけではなく、一方的に演説しただけなのだから。録画のほうが翻訳ももっとスムーズに行われたはずだ。

 

にもかかわらずそうしなかったのは、録画が「一回性」を損なうからだろう。つまり、あらかじめ録画された動画は「コンテンツ性」が強いのだ。演説終了後、その様子はYouTubeにアップされているため最終的には「一回」ではないのだが、録画されたことによってむしろ「録画の元になったマスター」としての公式感が醸し出されたように感じる。

 

自撮りの録画動画をSNSにポストしてきたゼレンスキー大統領だからこそ、それとのコントラストによって今回の演説のオフィシャル性が強調されたというのもおもしろい。「普段」や「カジュアル」とのスタイル上の差異によって「公式」であることが表現されるのだとしたら、こんにちのオンライン演説のオフィシャル性は「非SNS性」によってあらわされる、ということかもしれない。それは視聴される場が固定されていることと、配信がリアルタイムであることにある。

 

さて、ぼくが興味を引かれたもう1点、演説の間ずっとゼレンスキー大統領がカメラ目線だったこと、それこそが本稿の本題である。先ほど演説が「ぼくに向けられた」ように感じたと書いたが、その印象を強めているのがこの「カメラ目線」だった。冒頭のあいさつを読み上げた細田博之衆議院議長がずっと原稿に目を落としたままであったことが、ゼレンスキー大統領のじっとこちらを見る視線の力強さを際立たせた。

 

この対照的な視線についてはSNS上でも話題になった。多くは「下を見たままただ用意された原稿を読み上げるだけとはなさけない」「ゼレンスキーを見習え」といったものだ。日本の議員たちが原稿に目を落としたままそれを読み上げることに徹し、相手を見て話をしないことへの批判は、今に始まったことではない。

 

ぼくらはなぜか目を合わせないで話をする相手に対して不信感や不快感を覚える。それでも政治家たちはあいかわらずうつむいたまま答弁をする。おそらく、目を見て話をするというのはかなり高度な、訓練を必要とする技能なのだろう。

 

別の言い方をすると、対面での親密な会話以外ではかなり不自然な行為なのである。にもかかわらず、ぼくらは、こちらを見てほしいと思ってしまう。ちなみに、演説の後にあいさつした山東昭子参議院議長は、しっかりと列席者のほうを見ていた。

ゲンロン13

編集長:東浩紀

東浩紀が編集長を務める批評誌『ゲンロン』の最新号。今号では梶谷懐氏、山本龍彦氏、東浩紀による監視社会と民主主義をめぐる座談会、また、歴史・天皇・安全保障をめぐる三浦瑠麗氏と辻田真佐憲氏による対談、東の論考「訂正可能性の哲学2」を収録。さらに小特集「ロシア的なものとその運命」では、乗松亨平氏、平松潤奈氏、松下隆志氏、鴻野わか菜氏、本田晃子氏、東浩紀、上田洋子の座談会などを掲載。ほかにも大山顕氏の論考、鴻池朋子氏のエッセイ、やなぎみわ氏の特別寄稿などを収め、充実の内容でお届けします。

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大山顕(写真家・ライター)
1972年生まれ。千葉大学工学部卒業後、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めたのち、写真家として独立。著書に『立体交差』『新写真論』、共著に『ショッピングモールから考える』など。
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