元自民党副総裁・大野伴睦の「懐刀」だった渡辺恒雄。証言者が語るその実像と戦後政治の舞台裏
"奥座敷組"すら超える存在感
後にNHKの「ニュースセンター9時(※2)」の初代キャスターを務める磯村尚徳も、当時の渡辺の姿に衝撃を受けた一人だ。海外で幼少期を過ごし語学が堪能だった磯村は、NHK入局後、外信部やインドシナ、ヨーロッパ総局パリ支局特派員を務めるなど、国際派記者としてキャリアを重ねていた。
その後、「海外に偏ったキャリアになるから国内のことも勉強せよ」と上司に言われ配属されたのが、政経部(現在の政治部および経済部)の大野派担当だった。国際畑を歩んできた磯村にとって、自民党内でも最も「浪花節的」雰囲気が強いと言われていた大野派担当となったのは、青天の霹靂だったという。
そして初めて大野に挨拶に行った際、その傍らにいたのが渡辺だったという。磯村は取材当時90歳であったが、年齢を全く感じさせない矍鑠(かくしゃく)とした話しぶりで、渡辺との出会いについて語った。
「『永田町の中でも一番日本的な派閥を担当せよ』という相当ラフな局内の議論で、大野派を担当することになったわけです。そこで先任記者と一緒に大野伴睦さんのところへ行って、『このたび大野派担当になりました磯村と申します』と御挨拶をしたわけです。その時に横にいたのが、ナベツネさんでした。
大野さんは碁を打っていて、話を聞いてないような風情だったのですが、ひゅっと私のほうを向いてね。『おぉ、大野派にパリジャンか』と言うんですよね。これが大野伴睦さんとナベツネさんと私の第一の出会いでした。
ナベツネさんはわざと柄を悪くしたようなところがあって、普段は駄洒落を言ったり、女性に聞かせたらちょっと顔が赤らむような話題とか、学歴は一切感じさせないようなところがありましたね。
ただ人を見て法を説くようなところがあって、柄の悪い話を同業の我々にはするけれども、例えば中曽根さんのような勉強家とは、高い教養のある話を交わしていたと、間接的にも聞いたことがあります。だから使い分けていたんだなと。大野派内ではそういう教養のある話は全然出なかったですけどね。最初はそれになじめなかったけれども、だんだんと彼の真価が分かるようになりました」