海江田万里×古賀伸明 「リベラル世代」の政治家は何を築いたのか――「老害」批判をこえて

海江田万里(衆議院副議長)×古賀伸明(元連合会長)
古賀伸明氏(左)×海江田万里氏(右)
 団塊世代は政界でどんな役割を果たしたのか。団塊世代の議員である海江田万里・衆議院副議長と、民主党の政権交代にも関わり、労働界から政治を見てきた古賀伸明・元連合会長が語り合った。
(『中央公論』2023年4月号より抜粋)

団塊世代とは何だったのか

海江田 私は1949年生まれでちょうど団塊世代です。古賀さんが52年生まれだから3歳下で、私たち団塊世代が一番迷惑をかけた世代です。同じ大学の後輩とは3年くらい下まで付き合いがありますが、彼らからは、「先輩たちが学園紛争で散々荒らしたから、私たちは不毛の地で大学生活を送った」と言われたものです。だから「迷惑をかけてごめん」とよく言ってきました。

 古賀さんが大体同じ世代だということは、駿河台の連合の事務所にお伺いしたとき、ジャズのレコードがたくさんあるのを見て感じていました。私たちはジャズ世代なんですよね。


古賀 よく覚えていらっしゃいますね。

 私は団塊世代に二つの見方をしています。一つは、社会変革を牽引する世代として憧憬の目で見ていた面があります。海江田さんは「迷惑をかけた」と仰ったけど、団塊世代は、消費から世論、家族形成にいたるまで、社会、政治、文化のあらゆるところで戦後日本を作り上げた世代だと思っています。新宿駅西口のフォークゲリラをテレビで見て、「俺らは九州の田舎にじっとしていていいのか」と思うこともありました。70年に作家の三島由紀夫が割腹自殺をしたときも、私は浪人中でしたけど、団塊世代の影響を受けて、友達と議論に熱中したこともありましたね。

 ただ一方ではシラケた目で見てもいました。だから、私たちは前期「シラケ世代」なんです。


海江田 私が迷惑をかけたと言うのは、まさにシラケを生んでしまったという後ろめたさからですね。私たちがエネルギッシュに活動したことは、必ずしも全部うまくいったわけじゃなく挫折もあって、次の世代のシラケを生む原因になったんじゃないかな、と。


古賀 確かに、69年の東大安田講堂事件や70年安保闘争、72年のあさま山荘事件などを見て、結局世の中って変わらないのかと思いましたね。海江田さんの言う「荒らし」だけじゃないかと思って、シラケてしまった。そういう面があったのは事実ですよね。


海江田 日本で学園紛争があった68年頃は、世界でもスチューデント・パワーが注目されて、フランスでは五月革命がありました。アメリカでもベビーブーマーによるベトナム反戦運動が盛り上がって、のちにアメリカ大統領になるビル・クリントンもその世代でした。

 当時、日本でも少しずつ短期留学などで海外に行く人が増えていて、68年にパリに行ってきた私の知り合いが、五月革命を目撃してきたことを偉そうに語るわけですよ。「日本はこんなことじゃダメだ、パリは学生がみんな立ち上がってるんだ」ってね。私はドメスティックな学生だったから、同級生から世界の動きを教えてもらって、じゃあ俺たちに何ができるんだと必死に考えましたね。

 あともう一つの団塊世代の特徴は、みんなつるむということ。私たちはつるむつもりはないんだけど、数が多いから、周りを見渡すといつの間にかつるんでいるんですよ(笑)。望んでそうしているものと誤解されるんだけどね。これはやっぱり団塊世代の宿命ですよ。


古賀 少し下の私たちの世代まで巻き込んで「みんなで一緒にやろうや」みたいな空気がありましたよね。やっぱり、みんなで一つの目標を共有できた世代だったんじゃないでしょうか。


海江田 まだ貧しかったんですよ。私は東京の山の手に住むサラリーマンの子弟だったけど、すき焼きなんてしょっちゅう食えるものじゃなかった。(笑)


古賀 確かにそうでした。ただ、あの頃は貧しいけど、だんだん暮らし向きが良くなっていく実感があったんですよね。


海江田 本当にそうです。寝るときに「今日より明日は良くなる」と思うことができました。当時流行った歌が、橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」。この前カラオケで歌ったけど、今の時代にはちょっと違うなと思ってしまいましたね。(笑)

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