天皇訪中実現に暗躍した田中清玄...昨年末に公開された外交文書の余白を読む

徳本栄一郎(ジャーナリスト)

昭和の「フィクサー」田中清玄

 訪中が正式に決まった直後、北京の中日友好協会の孫平化(そんへいか)会長が、日本の新聞の取材に応じた。そこで孫は、訪中実現に動いたある日本人の名前を挙げた。

「すでに七八年、鄧小平氏(当時副首相)が日中平和友好条約の調印のために訪日したさい招請している。その後、昭和天皇の時に田中清玄氏が、皇太子(現天皇)〔筆者注・現上皇〕訪中の計画を持って訪中したが、そのさい鄧小平氏が昭和天皇も皇太子殿下も歓迎すると答えた。中国の上のほうは、(ずっと)このような方針だ」(『毎日新聞』1992年8月27日)

 昭和史に興味のある人なら、田中清玄(きよはる/せいげん)の名は聞いたことがあるかもしれない。

 明治の末、北海道の函館近郊で生まれ、東京帝国大学に進学、日本共産党に入党した。当時、共産主義運動は非合法で、中央委員長となった彼は武装方針を取り、官憲と銃撃戦を重ねる。治安維持法違反で逮捕、11年を獄中で過ごすが、その間、息子を諫めようと母が自殺、これを機に共産主義を捨てた。

 戦後は熱烈な天皇主義者となり、国内外で反共活動を行う。また土建業や海外の石油権益獲得など事業を手掛け、アラブ首長国連邦のザーイド大統領、インドネシアのスハルト大統領、欧州のハプスブルク家当主のオットー大公らと人脈を築く。1993年に亡くなるまで、国際的フィクサーとして活躍した。その生涯を追ったのが、拙著『田中清玄──二十世紀を駆け抜けた快男児』(文藝春秋)だった。

 その中で、田中が鄧小平と会った場面が登場する。1980年4月、中日友好協会の招きで訪中した彼は、鄧と会見、その際ある提案を出した。自伝で本人も認めている。

「鄧小平さんとの会談の席上、私の方から申し上げた。陛下〔現上皇〕はもちろんその時は皇太子でしたから、皇太子殿下の訪中ということです。鄧小平さんは『是非やりましょう』と即答されました。そればかりではありません。鄧小平さんは昭和天皇のご訪中も歓迎いたしますとさえおっしゃったんですよ。私がそのときに天皇陛下のご訪中の前に、まず皇太子殿下に行っていただこうと思ったのは、いきなり陛下のご訪中といっても、自民党は反対しますからね。なんといっても、それには時間がかかる。

 いきなり陛下のご訪中などと言い出して、日中関係がおかしくなったら、そんなもの永久に駄目になりますよ。いわば将来、陛下がお出でになられるときの道開きだと考えた」(『田中清玄自伝』)

 こうしたやり取りがあったのは、同席した田中の秘書、林賢一も確認した。

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