天皇訪中実現に暗躍した田中清玄...昨年末に公開された外交文書の余白を読む

徳本栄一郎(ジャーナリスト)

入江侍従長と田中の交流

 その後も田中は訪中し、要人と会見を重ねる。そして帰国後、宮内庁幹部と密かに会い、中国側の話を詳しく教えた。それは、すぐに天皇に伝わる。この幹部こそ、半世紀に亘って昭和天皇に仕えた入江相政(いりえすけまさ)侍従長だった。

 二人が会うのは、都内港区白金台の都ホテル東京(現シェラトン都ホテル東京)。1980年代に田中の秘書だった林も、何度か立ち会ったという。

「清玄先生が入江さんと会うのは、いつも、都ホテルと決めていました。あそこは、他のホテルと違って、専用の担当者を置いて、こっちの細かい頼みも聞いてくれたんです。先生が宿泊するのは1236号室で、別に個室を取っておいて、料理やワインを運び、入江さんは、いつも一人でやって来ましたね。こちらで用意したレポートを渡して、食事しながら背景を説明するんですが、中国や欧米、ソ連の動向が中心でした」

 こうした会合は、当時、2、3ヵ月に1回のペースで持たれ、入江の自宅に直接レポートを届けることもあった。

 これらは、後に公表された入江の日記で確認できる。侍従になって以来、彼は亡くなるまで日記をつけ、遺族が『入江相政日記』として出版した。ここに時々、「田中清玄」「都ホテル」の記述がある。1984年4月の欄には、天皇が「中国へはもし行けたら」と語ったとある。

 中国の首脳と天皇を結ぶ、外務省を介さないルート、バックチャンネルがあった。その立役者が、田中だった。

 ここで、疑問に思う人もいるだろう。なぜ入江は、そんな裏ルートに頼ったのか。

 もはや本人に訊けないが、情報管理のためとすれば筋は通る。外務省を通せば、すぐに自民党に漏れる。そうなれば、話は潰れる。信頼できる人物を介するしかなかった。

 万一漏れても、田中が勝手にやったとすれば、白を切れる。英語で言うディナイアビリティ、否認権である。だが、そもそもなぜ、一右翼のフィクサーが天皇側近と、こうした関係を持ったか。話は、終戦直後に遡る。

 国土が焦土と化し、無条件降伏した年、田中は密かに天皇と会っていたのだ。きっかけは、『週刊朝日』に載ったインタビューだった。刑務所を出て、土建会社を経営する田中を紹介したもので、ここで彼は天皇制維持を熱烈に訴えた。

 今では想像もしにくいが、当時、公にこうした発言をするのは、大変な勇気がいった。敗戦の混乱で、政界や官界、言論界にも左翼思想が広がり、一部は武力革命を唱えた。その状況で、堂々と天皇制を擁護した。これを読んだ側近が、皇居へ田中を招いたのだった。

 拝謁したのは1945年12月21日、場所は宮中の生物学研究所。その場に侍従の入江も同席した。そこで田中は天皇に、決して退位してはならず、国民のため皇室財産を投げ出すべきなどと訴えたという。

「最初は二、三十分ということでしたが、結局、一時間余りですかねえ。それで僕は、お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず『私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます』とお約束しました。そうしたら、終わって出てきてから、入江さんに『あなた、大変なことを陛下にお約束されましたね』って言われたなあ。それと『我々が言えないことを本当によく言ってくれました』とね」(『田中清玄自伝』)

 そして、それを実行に移した。この頃、皇居には共産党のデモ隊が押しかけることもあった。だが、連合国の占領下、警察は機能が低下し、呆然と見るしかない。これを聞いた田中は、復員軍人やヤクザを大勢送り、デモ隊を殴り倒させた。いわば、皇室を護るための影の藩屏(はんぺい)、実力部隊だ。入江と田中は、その後も個人的な親交を続けていくことになる。

 こうしたネットワークを、外務省は知っていたか。今回公開された文書では、判然としない。中国からの招請の経緯にも、鄧と田中のやり取りはない。だが、天皇が訪中に並々ならぬ熱意を持っていたのは感じ取れる。

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