「日本人ファースト」を法哲学で考える 福祉国家を支える論理と倫理

安藤 馨(一橋大学教授)

不偏性では福祉国家は存立不能

 だが、不偏性を中心とする道徳理解は、道徳の要求を極めて峻厳なものとする。不偏性の下では、グローバルな貧困地域における餓死の悪さは、私の最も親しい友人や家族の、そして自身の餓死の悪さと道徳的には区別されえない。他者の苦境と私自身の苦境の道徳的重みが完全に同じであるがゆえに、私は自身の苦境を解消せんとするのとまったく同じ熱意を持って他者の苦境を解消しなければならないのである。

 そして、この峻厳さは福祉国家を支えるどころかむしろ不可能にする。というのも、もし福祉国家が、道で倒れている人のような、苦境にある他者に対する救助義務のような不偏的義務に基づいているならば(生活保護制度の理念が、この義務以外によって説明できるものだろうか)、その救助義務は対象者が私とどういう人間関係にあるかに依存しないのであり、福祉国家の理念は地球全体に拡大されざるを得ないからである。先進国に暮らす我々が、救助義務を果たすために用いる金銭そのほかの資源は、貧困国においてこそ遥かに効率的に人々が苦境を脱することを可能にする(たとえば15万円弱の金銭で1ヵ月生存できる人数がまったく違ってくることに注意しよう)。

 したがって、不偏的な救助義務を我々が果たそうとする際に、国外の困窮者に対してではなく国内の困窮者への給付に手持ちの資源を費やすことは、端的に不合理であり、道徳的義務を履行する際にあえて不合理な手段を用いることは、端的に道徳的不正である。それゆえ、同国民の苦境を他国民の苦境に優先して解消しようとする福祉国家という枠組みは、自身を支えるはずの理念に反しており、道徳的に正当なものではありえないことになるだろう。同国民を他国民と道徳的に異なった存在として扱うというナショナルな偏向性を道徳的に承認すること抜きには、福祉国家は道徳的に正当に成立し得ないのである。


(『中央公論』11月号では、この後も偏向性配慮が不偏的幸福を生む逆説や、ナショナリズムの過剰ではなく弱体化によって排外主義が生じる構造などについて詳しく論じている。)

中央公論 2025年11月号
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安藤 馨(一橋大学教授)
〔あんどうかおる〕
1982年千葉県生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。専門は法哲学。東京大学助手、神戸大学教授などを経て現職。著書に『統治と功利功利主義リベラリズムの擁護』、共著に『法哲学と法哲学の対話』がある。
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