村上陽一郎 原子力は「絶対悪」か「優等生」か

村上陽一郎(東京大学・国際基督教大学名誉教授)
 3.11東日本大震災を機にエネルギーの在り方が問われるようになった。原子力発電はいかに位置づけていくべきか。自然エネルギーの可能性は。

菅政権「脱炭素」の唐突さ

 前・現政権のウイルス禍対策に、国民の各層から色々と批判がある。当初は、COVID-19に関する知識が殆ど入手されていなかった上に、幸か不幸か、韓国やヴィエトナムその他一部の国々が、SARSやMERSの流行で積み重ねていた経験も持たなかった。その点で、場当たりの対策しか講じられなかったことは同情すべき点もないではないが、現時点になれば科学的知見も、また打った対策への結果のアセスメントも、ある程度可能であるはずだろう。また、科学的な立場での判断だけでは事が済まず、所謂「経済的な」考慮を併せ施さねばならない義務もあろう。そうしたなかで、政治担当者から聞こえてくる真摯な声が乏しいのは残念である。神ならぬ人間は、その時その時に常にベストな判断をし、行動をする、などということは、不可能な存在である。精々、ベターと思われる結果で満足せざるを得ない。だとすれば、振り返って過去に打った対策には、「よりベターな」何かががあり得た、と考えられれば、率直に反省の言葉を国民の前に明らかにし、常に「ベター」な解を目指して努力していることを、国民の心に届く自身の言葉で語りかけるような姿勢を望みたい。

 ところで、その現政権が発足時に、二〇五〇年までに、温室効果ガスの排出量をゼロにする、という政策目標を打ち出し、予算として二兆円という額を計上することを宣言した。やや唐突感は否めないが、忖度するに、新しい政権の新味をアピールするために用意された目玉のつもりであったのだろう。

 唐突感の背後には、一体そんなことが可能なのか、具体策はあるのか、という疑念がある。お金は、出せばよいというものではない。自動車産業の指導者からは、直ちに激しい反発が示された。それはそうだろう。どういう計算に基づいて、どの戦略上の選択肢に、どのくらいの資金をつぎ込むべきなのか、その寸法取りが明確に示されないままに、自動車の石油非依存型(電気、水素)化に期待がかけられても、すでにこれまでに重ねてきた努力以上に、革命的な飛躍がおいそれと生まれるとは思えない。過度な期待は迷惑と言いたいのも判るというものである。

 そもそもの間違いは、「三・一一」後にあった。無論問題の出発点は、本来最大の津波発生元である太平洋に面した原子力発電施設の津波対策に、重大な過誤があったこと、またそのことに永らく気付かなかった規制機関にも、大きな懈怠があったことである。筆者自身、「三・一一」の丁度一年前にその職を退いていたとはいえ、当時の経済産業省の原子力安全・保安部会の部会長をく務めていた身としては、当時の部会での議論が、阪神・淡路大震災(一九九五年)、新潟県中越地震(二〇〇四年)という、二つの大震度地震のデータや、その後の地質調査結果などに基づく、耐震強度の見直しに集中し、津波への関心が薄れていたことに、返す返す、申し訳なさを今も感じるし、思い返すだけで、強い自責の念に駆られる。

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