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鈴木涼美 不相応な値段がつけられた女子高生は、その無意味を証明したかった(橋本治『桃尻娘』を読む)

第2回 無敵だったココロと冷めた見解(橋本治『桃尻娘』)
鈴木涼美

「若い女」につけられた不相応な値段

 90年代後半というのは兎角大人が女子高生について本を書いたり、ワイドショーで説教をしたり、逆に新聞の紙面上で擁護したりしたがっていた時代で、私たちは私たちの言葉ではない言葉で知らぬ間に理論武装されて、時代の代弁者のような格好をさせられて、なんだか居心地が悪いなぁと思っていたものです。別に私は自分の行動を、いちいち何かの主張に使っているつもりはないのに、評論家や社会学者の手にかかると私たちは大層な意味を背負って渋谷に座っているようになってしまって、説教されるのはそれはそれで鬱陶しいけど、庇われて心の内を解説されるのも、同じくらいに鬱陶しいと感じていました。だって私は別に自分が生まれた時代の自分が生まれた世界しか知らないのに、おじさんたちに大局的にギャルたちの革命とか言われても困ります。

 ただ、だからといって自分らがまだ言葉を持たない、取るに足らない存在であることは私たち自身がよくわかっていたし、おじさんの解説に唾を吐く割には、おじさんたちが女子高生向けに用意したファッションビルで買い物して、おじさんのプロデュースした曲で踊り、おじさんの授業を受けて、ついでにおじさんたちから小銭を巻き上げて遊んでいたわけで、私たちだって大概滑稽な存在です。全てを見下して、私たちのことは私たちにしかわからないでしょ、なんて態度をとってみるわりに、それがある種の虚勢でしかないことに気づかないでいられるほどイノセントな時代でもなく、自分らのアドレッセンスのようなものが期間限定で去っていくことも自覚せずにはいられませんでした。つまらない大人にはなりたくない、というような青臭いコピーはすでに時代遅れな気がして、つまらない大人になることはわかってるんだけど、という照れ隠しの留保をつけて若さを生きていました。若さとはいつの時代も、そういうものなのかもしれません。

 17歳の時も19歳の時も30歳の時も、私は1人のワタシという人間であって、それは連続運動としてずっと地続きにある、というのも一つの考え方ですが、私にはどうも、若い女の時間というのは人生というものからもう少し自立して切り離された、特殊なものであるようにも思えます。それはもちろん、自分の中から分泌される特殊な成分の話ではなくて、多くが外からつけられる意味に関係しています。ギャルに時代の答えを見ようとした評論家たちの話も、私たちの若さに意味をつけてくる大人の一形態ではあるけど、もっと日常に根ざした形でも私たちは意味に溢れていました。価値に溢れていたと言ってもいいでしょう。私たちの肉体に、どう考えても不相応な値段がつけられていたのは言うまでもなく、ほかにも、若いっていいなぁとおばさんたちに声をかけられ、若さを無駄にするなと親に窘められ、そしてやはり制服を着ているというだけで私たちは学ぶを生きると書く学生という以上の、何かとても不健全な価値を持っていました。自分らの存在につけられた価値が馬鹿げていると信じながら、その価値に頼って自分の居場所を確保せざるを得ない、女で若いって、本当にそういうところがあるものです。

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