鈴木涼美 不相応な値段がつけられた女子高生は、その無意味を証明したかった(橋本治『桃尻娘』を読む)
全部ナッシングだと言ってしまえる文章が必要だった
分厚い化粧で武装しなければならなかった私の若い頃より、もしかしたら今の若い女の子は、不安を口にできる強さを身につけたのかもしれません。そう思うことは節々にあります。それでも、拙い言葉と幼稚なセンスでする表現には限界があって、だからこそ、女子高生には自分らの中から発せられるわけではない言葉も必要だと思ってしまうのです。『桃尻娘』の主人公が、生理が始まる前を懐古してこんな風に言う場面が好きです。「あたしだってそうなるんだって分ってだけど、分ってたからこそ許せなかったの、あたしも同じだっていつも鼻先で見せつけられてる気がして、あたし達はいつもそんな子を仲間外れにして遊んでたわ。」
黒スプレーをべったり振りかけたガビガビの髪を思い出すまでもなく、若いときってどんな人でも自分にべったりくっつけられた価値を居心地悪いと思って、早くオトナになりたいなんて思うものです。青春という言葉自体が、ちょっと世の中への抵抗や反抗を孕んでいるわけで、本当は自分たち、身体の調子もよく、結構まだ世界が新鮮で、思いっきり楽しいのに、若さは楽しいっていう押し付けられた価値に反抗もしなきゃいけなくて、変にニヒルに笑ったり、大人たちに向かってワカッテないなぁという態度を示す羽目になる。それを具体的に示すために、女子高生の売春とか非・売春とか、性の乱れとか、無気力な若者とか、暴走行為とか、派手な下着とかがあるのだけど、そんな青春ワード全てがやがて去りゆくものであることも、重々承知しているわけです。どんなに楽しくても、まぁこんなこと言えるのは今だけですけどね、という冷めた気分が拭いきれない。これもまたなんだか幸福にケチをつけるようでつまらないことです。
オトナはみんな、若さというものをなんとかサバイブした過去があります。乗り越え方はそれぞれで、過度に冷笑的に過ごした者も、器用に馬鹿なふりをしていた者も、とことん馬鹿になりきってみた者もいるけど、いずれにせよ自分の後にくる若者が何をしても、若いってすばらしい、或いは若いって怖い、或いは若いってバカだ、と小馬鹿にしてきます。でも、若者は好きで若者であるわけではないし、若い女は好きで若いわけでも女であるわけでもないのです。私は、若いというだけで女だというだけで、過剰に崇め奉られることも過剰に軽んじられることも両方嫌で、だからこそ、自分らの無意味を証明したかったような気がします。
榊原玲奈は言います。「高等学校三年生だっていう正体のバレてる日本娘が十七だったからって、別に自慢にも何にもなりゃしないのよネ、決ってるわ」。私が若さを生き抜くためには、全部にくどくど語れるほどの自意識と、それを全部ナッシングだと言ってしまえる文章が必要でした。


