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鈴木涼美 自分の感性を信じることは世界とのずれを意識すること、すなわち孤独である(鈴木いづみ『いつだってティータイム』を読む)

第13回 女子高生にある個室の自由(鈴木いづみ『いつだってティータイム』) 
鈴木涼美

渋谷の新しい書店ビル、4階のサブカルチャーの棚で

 私にとって女子高生の頃の思い出というのは、この、昼と夜のあいだにある時間のものが思いのほか多く、それは必然的に、書店やCDショップのトイレの中を含みます。この、世間で高校生と括られる姿と、そこから逸脱しきる姿の中間あたりが、私たちの本来の実態に近かったというのが理由の一つかもしれないし、親の庇護の下にある子供と、それを離れる大人のちょうど中間にある女子高生という立場が、その制服と私服の中間のような時間と相性が良かったのかもしれません。

 学校の図書室なんて入ったことはなかったけれど、綺麗なトイレ目的のためとはいえ、街の書店には毎日のように足を運ぶことになりました。私が女子高生時代に出会った本の多くは、この、トイレが着替えるのに適した、渋谷の新しい書店ビルの中で見つけたものです。教師や親は私たち女子高生の、制服に収まりきる程度の部分を愛してくれても、そこからはみ出る、私服にしか入らない部分には怪訝な顔をするものです。それはそれで、教育者としては間違っていない気もするけど、少なくとも私の場合、文学や音楽やもっと言えば学ぶという事に、私自身を接続してくれたのは、昼のくだらない学校の授業やくだらないことを言うのが仕事である教師たちではなく、夜のための控え室となっていた渋谷の書店でした。私が制服に入り切る程度の生活をしていたら、着替えるのに便利なトイレを見つけ出す必要はなかったし、そろそろ書棚の本にでも目をやらないと退屈だと感じるほど、毎日同じ書店に出入りすることもなかったわけです。こういう、失礼で非常識な女子高生を受け入れてくれる街の緩みが、結果的に私を夜の闇に落ちきらない女に育ててくれた気もします。

 渋谷にできたその書店は場所柄なのか比較的新しい経営母体からなのか、新宿にある老舗の書店や、東京駅の近くの巨大な書店よりも、ずっと表面的なことに開かれていました。書店は意味の集合体のような場所だけれど、女子高生の頃の私が渋谷のその書店が好きだったのは、無意味なことを恐れない、全力で肯定してくれるような側面を持っていたからです。一階の雑誌コーナーに豊富に揃っていたファッション誌やカルチャー誌のバックナンバーも、地下のただただかっこいいだけの画集やアートブックも、最上階の漫画のセレクトも、気づけば夜の予定に遅刻するくらい見入ってしまうほどでした。

 一時期は6階のトイレを使っていたのですが、そのうち4階のトイレも結構空いていることに気づき、4階のサブカルチャーの書棚の近くにあるトイレに通うようになりました。最初は脇目で追う程度だった棚ですが、そのうち色々と物色するようになり、そうやって見つけた本の中に、数年前に一気にシリーズで刊行されていた鈴木いづみコレクションがあります。ピンクの背表紙が書棚の上の方にずらっと並んで、1、2冊引き出してみると、表紙は全てアラーキーの撮った鈴木いづみ自身の写真でした。カメラの前で裸とかになっちゃうような彼女の文章は、直感的でもあり、ひどく論理的なこともあって、明るいけれど、常に諦めているような軽い絶望と共にありました。モデル、女優、作家と、多様な顔で70年代を彩った彼女が、たった36歳で、ストッキングで首を吊って死んでしまったことはなんとなく知っていたけど、私が知っていたのは彼女のドラマチックな死のみであって、その死に至るまでのドラマも非ドラマもよく知リませんでした。

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