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鈴木涼美 自分の感性を信じることは世界とのずれを意識すること、すなわち孤独である(鈴木いづみ『いつだってティータイム』を読む)

第13回 女子高生にある個室の自由(鈴木いづみ『いつだってティータイム』) 
鈴木涼美

芯から痺れるような一文を拾い集める

 エッセイ集『いつだってティータイム』の中で、彼女は自分についてこんな風に描きます。

「精神病理学的なイミにおいて、わたしという人間は、かなりおもしろい見本だとおもう。コンプレックス(複合感情)はひと一倍だし、常にアンヴィヴァレンツ(愛と憎しみのような両極端)にひきさかれている。なおかつ過敏すぎるくせに、非常に鈍感である。敏感なところより、にぶい部分の方がはるかに広大なのだから、いやになる」

 女子高生というといかにも自意識過剰で、自分の価値が億のようにもゼロのようにも感じられる時期ですが、私はそんな年齢の頃、どうにも理性的な人間というものへの憧れを捨てきれず、要は自分の直感的なものや感性による選択というのを軽視する傾向がありました。ただし、知識も責任もない女子高生が想像する理性なんていうものはただの一見合理的に見える冷たい態度でしかなかったりして、しかも性格的にはどう考えても感情的で感覚的だった私は、どうしたって好き嫌いとか気持ちいい気持ち悪いで判断してしまう自分自身と、理性をどう接続すればいいのかわからず、考えあぐねていたように思います。

 はたして、鈴木いづみは大変好き嫌いのはっきりした、しかもそれを言葉にすることを恐れないような態度を見せますが、常に自分を上から見下して、揶揄する体力があるようにも見えます。私はこの体力こそが私が願って欲しがっていた理性のようなものなのだと信じます。彼女は新宿や浅草や原宿をタクシーなどで移動しながら、自分の感性を恐れずに生きていました。自分の感性を信じることは世界と自分のずれを意識することであり、すなわち孤独であることだから、孤独であることを受け入れた人のように、私には思えます。

「わたしはじつに容易に「わたしなんか、絶望の人生だもん」などと口にだす。正常な人間にとっての「絶望」ということばは深刻なひびきをもっている。それはあたりまえだし、あたりまえだということを、わたしは知っている。にもかかわらず、口にだす場合はほとんど信用してはいないのだ。信用できないことばをつかって、なんとか自分の内部の暗闇をあばきだそうとしている」

 このエッセイ集が編まれた70年代は私が生まれる直前の時代です。私は大人たちの言葉の中にしかその時代を想像する術がなかったけれど、妊娠中に夫に「おまえは頭がおかしいのだ」と言われながら酷いつわりで吐き続けた彼女の人生が容易いもののようには思いません。ただ、映画や音楽を語る彼女の語り口は軽快で、時にポップでもあります。時代を恨むことも、運命を恨むこともせず、過度に自虐的にはならないけれど、自分という人を容赦なく言葉で切っていく彼女の本を、一冊ずつ手に入れるのが私の一時期の書店での、着替え以外の日課になっていきました。何か息つく間もないストーリー展開に夢中になっていたわけでも、何かを学び取ろうと必死になっていたわけでもないけれど、彼女の紡いだ多量の文章の中から、私が芯から痺れるような一文を拾い集めていくのが楽しかったのです。

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