エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(二)
【連載第十六回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
「大和の戦闘手記はいよいよ九月には出る」
このおっかない小林チェックがいつだったのかを吉田は書いていない。ただし、江藤淳との対談「「大和」以後三十年」で、いつ頃だったか想像はつく。創元社で出くわした人物について、吉田が喋っているからだ。
「その頃小林さんのところに、いわゆる復員服を着た、あまり文学者らしからぬ実業家のような風貌の人がよくきていましてね、小林さんが〝この男がフィリッピンで捕虜になったおもしろい話を書いたから、お前さんのを創元の第一号に、それを第二号に載せるつもりなんだ〟というような話をされまして」
この「実業家」風の男が「俘虜記」の大岡昇平である。大岡が「俘虜記」を書き上げて、上京するのが六月だから、それ以降であろう。その頃なら、小林も「モオツァルト」を脱稿し、「創元」創刊号はかなり形を成しつつあった。編輯者小林秀雄としても成算は大いにあったろう。
吉田満から東京高等学校以来の友人・志垣民郎宛ての昭和二十一年夏頃の手紙に「創元」の報告がなされている。吉田を「美貌で天才」と認めた志垣は陸軍に入り、大陸から無事帰還した。この手紙には、「この春ものした音楽論及び恋愛論をお見せしたい」とあるから、日銀の仕事をしながらも吉田は旺盛な執筆意欲だったようだ。
「大和の戦闘手記はいよ/\九月には出ることと思う。小林秀雄編輯「創元」の創刊号に載る。反響によっては単行本にして出そうと思う。大いに期待してくれ、すぐれたものとは勿論決して思わぬが、精魂こめて書き、明瞭に、俺個人の能力の限界を超え、今では俺に対する一つの規範となっている。精魂をつくしうることの如何によきかな。/今、創作の計画をしている。「幼子」と題しようと思う。もとより俺の決算となるべきもの。芸術というようなこと、考えるすら憚らねばならぬ」