もし「創元」が「文学雑誌」のままだったら
ちくま学芸文庫版『青山二郎文集』の年譜(森孝一編)では、昭和二十年の戦争終結前に、「この頃、小林秀雄、石原龍一と相談して豪華な美術文学雑誌『創元』の刊行を計画する」とあるのだが、そう断定できる証拠はあるのだろうか。元版の小沢書店版『青山二郎文集』の略年譜(林秀雄編)には、そうした記述はない。
略年譜をつくった林秀雄は、本名を「小林秀雄」という。小林の「同姓同名」(「時事新報」昭和24・5・22)、「新年雑談」(「波」昭和49・1)に出てくる。創元社に昭和十五年に入社した編集者で、まぎらわしい名前だというので、「小」をとって「林秀雄」となった人物だ。後に、自分の出版社・緑地社から十年がかりで『八丈実記』を出し、菊池寛賞を受賞する。『八丈実記』は柳田國男が小林に教えた本だ。そうした事情は「創元」創刊の時期の確定には一切関係ない。ただし、林秀雄はずっと「創元」のもう一人の編輯者・石原龍一とのつきあいも長い。石原龍一は美術書出版の求龍堂の社長で、戦中から青山と同じく伊東に疎開していた。梅原龍三郎の画集も出している。
「創元」の編輯は小林一人体制から、この昭和二十一年の一月中旬以降のどこかの時点で、三人体制に変わったのではないか。三人体制となることで、「文学雑誌」から美術雑誌、芸術雑誌へと性格が変化する。それには、この伊東滞在が大きな役割を果たしたのではないかと憶測するのだが。「創元」の発売が遅れるのは、青山の原稿が難渋したという理由も大きい。大岡の「従軍記」は五月の末に書き上がった。その時点では、青山も小林もまだ書きおえていない。
大岡の「再会」によると、「半年後出来上った百枚の原稿を、先生はほめてくれたが(私の書いたものが、先生にほめられた最初である)、あんまり描写がないのに、少し驚いたらしい」(「再会」)。「創元」が「文学雑誌」のままなら、「俘虜記」と「戦艦大和ノ最期」と並べて創刊号に掲載する手もあったのではとも思う。戦う気がなかった兵士と、戦死を覚悟した「散華の世代」、そのそれぞれが経験した戦争を一冊に収め得たのだから(検閲は不許可となるにしても)。