焼けビルの中の新聞社
昭和二十一年(一九四六)一月二十一日、焼け跡の東京で、「新夕刊」の第一号が発行された。
小林秀雄が深く関係した新夕刊新聞社のことを、初めて詳しく書いたのは吉田健一の「世にも不思議な新聞社の話」(初出未詳。昭和31年刊の『三文紳士』に収録)であろう。
「まだ新橋から芝にかけて一面に焼け野原の中に、やみマーケットができていたころで、両側がやはり焼け野原の電車通りを新橋から浜松町の方にゆくと、左側に一軒の焼けビルがあり、それが新夕刊新聞社だった。ビルの中も焼けたままで、それでも一階に輪転機があり、そのわきの小さな部屋で林さんに会った」
「林さん」とは作家の林房雄で、鎌倉文士であり、小林とは「文學界」以来の盟友である。吉田健一は社内に用意されていた珍しい酒が目当てで新聞社に顔を出し「嘱託」となる。名刺の肩書だけは「渉外部長」という立派なものだった。占領軍の検閲当局との交渉が仕事である。ケンブリッジ仕込みの英語が役に立った。
吉田健一は、この新聞社の素性については、かなり控え目に書いている。「林さんはしろうとの実業家が新聞を一つ手に入れて勝手がわからなくて困っているので、手つだいに頼まれて行っていたらしい」と。間違いとは言えないにしても、ソフトに書き過ぎている。その点、林房雄は『文学的回想』(昭和30年、新潮社)で、「
「助け舟をひっぱってきたのは、小林秀雄であった。この人は文士だが、文壇離れした友人をいろいろ持っている人物だ。戦争中上海に行ったとき児玉機関の高源重吉という人物と親友になった。高源氏に小林がほれ込まれた形であったとあとで聞いたが、その高源氏が児玉誉士夫氏から「やまと新聞」をゆずり受け、新しい新聞を出すことになったが、その編集を引き受けてくれれば、小林と私に支度金として五万円ずつくれるという」